1927年『欧米独断』第六章 獨逸(ドイツ)論

 仏蘭西国の現状が少なくとも財的個人主義と為りはててその私有財資を投げ出して国家を救うの挙に出でず徒に独逸を壓服することに汲々として軍備の為には財政をも顧みず敵なきに重甲利兵を身に付けて動きの取れぬ態たらくなるを気の毒に思った吾々も独逸に入ってその国民の弾力の強きに感服せざるを得なかった。独逸の国土が戦場とならなんだだけでも災禍をうくるの浅少なるはその美しき山林、廣濶なる農場、盛大なる工場を見ただけでも窺われるが、それは勿論視神経の直覚に由るに止まって独逸の復興が容易の業ではないは申すまでもない。唯亡国に瀕する国難を数次繰り返して試練を累ねた国民の力が現れてくる所が如何にも強靭で偉大なものであることを認めるときに、恐るべき将来あるものは矢張り独逸だと何人も感じ得る譯である。(中略)
ミュンヘン市は紙を落としても罰金を取るほどあって綺麗な町、宮廷酒場の麦酒の安さと旨さが人望を博される原因でもあるまいが、太子の人望は偉いもので帝政になるとカイゼルのお鉢が回るかも知れぬ、36あるという博物館を一々見ることは不能だからヒンデルブルグが巴威人の機嫌取り立てたと稱せられるドイッチェ博物館だけ見てその完備に驚いた中に日本の籠や人力車が陳列される馬鹿々々しさは厭であった。ハイデルブルグではグロップ先生が待って下さって、28人の我留学生と歓迎会を開かれる予定であり、且何事も調査の便宜を與てやらうとであったが何しろ病人が気になるから滞在が出来ぬで折角の好意を無にし先生の郷里に立てらるる日本神社の鎮座祭が10月末には行われるというので、我文部大臣の祝辞を望まれるだけを引受け大学や決闘場やルネサンスの古城などを見たぎりで去ったのは惜しかった。午後の5時にマインを出る船でケルンへ下る予定であったが汽車が僅か二時程の所を1時間半遅れて仕様がない独逸でさへこれだから我鉄道は有難い。道路でも幹線は良いが田舎になるとこちらより悪いのもある。マインツでビーゲンまでの船ならあるといふので仕方ないと乗って下る。ラインの景色は旅愁を慰めるに足る、河に通る山脚随所に古城のあるのは独逸の争いが此の河の占有にあったを示すもので好餌が過去未来の禍根となって居る。河中の島に通行税を取ったという建物の如きは来島に城砦を築いて瀬戸を通う船を驚かして徴税した伊予海賊を想い出さずには居られなかった。只風景を見ては物足らぬから旨いラインワインを傾けては興を添えた。ビーゲンは田舎町で木賃宿の如きところに泊まった、そこへ英国の兵隊が二人飲みに来たところが駐屯兵退去の示威運動を男女学生が遣った、英兵が言うには強いものは皆戦死したあんなひょろひょろ共が示威運動した所で何と思うかと軽蔑した。吾々には何れがひょろか判断は不能ぬ。英兵が帰ると宿の娘が曰ふあの人は私大好き9月に除隊になって帰るから私英国へ往って結婚するのよとの問わず語りにはちと当てられた。翌朝亦遊覧船に乗り早速ラインワインを買うて飲みつつ下る快さ、栗原氏にローレライの詩を謡わすと同船の婦人客が悉く唱和する平生ならば如何に愉快ものであったろうか、コブレンツで上陸して汽車に乗換えて伯林へ帰り宿昔の望は幾分達したが遥かに家郷を懐ふの切なる為に調査を抛棄するは已むをえぬ仕儀であった。(中略)
独逸人の研究を発表するの早計に失するは近来の弊でコッホが肺病に対する発表が最適例だ。我九州大学の最近年の状態が独逸学会に彷彿たるものだ、尚専門の弊を蒙りて大局の見えぬ抔も独逸風と謂うべきかと思う。大戦の初めから中頃まで独逸軍の勢いの良い際中に参謀本部の英材たちは独逸必勝を力説したに対し我秋山真之独り之に対して必敗を説き大勢の上より孤立なるが故に屈すべく亦モルトケ流の理屈戦略にて一人の将材なしと言いリエージで道草を食い東普魯西へ回旋運動をしたことなどを指斥したが流石秋山の見識は未到の事実を洞波した。我国は独逸かぶれが甚だ多いがその長短は之を明らかにして置くべきだ。それから独逸人は一般に器械的で臨機の働がないのは郵便局へ5度か7度か用足しに往けば直ぐわかる、而も亦服従国民で軍隊の密集部隊には最適するが独断専行の散兵としての価値は疑問である。共和制よりは君主制が憲政よりは独裁政治が国民性に適しはすまいかとも想われる。盗癖の多いのと男性が少なく女性が過剰なるが為に生じた風俗の發頽は最も厭はしい所だ。
独逸の学ぶべき多くのものを有するは周知せられて居るが分業に傾き過ぎて大體大用に暗きの弊と研究は好しとして理屈に趨るの癖は避けたいものだ。

「これやかれや」には、8月17日午後7時伯林を発しモスコーに向かい帰途につく、とある
  〇鮮人は明日の汽車かや秋の風
  〇秋風や残暑話も土産とて

(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)