1927年『欧米独断』第七章 露西亞(ロシア)論

 永かった欧米独断の旅も最終章になった。清家吉次郎は8月18日モスコーに到着した。

 革命以来の露西亜の真相は皆目分らぬ、シベリア経由で帰朝を幸いに且三日間はモスコー滞在が可能といふから、モスコー行きに乗って次の極東行きの来るまで、同地で視もし調べもすることにした。
ポーランドへ入ると税関史が来ても劔附鐵砲の兵隊が付いてくるなど独逸以西とは様子が違う。田園は存外能く開けて居るが、牧場に担がないから牛馬の群れには必ず婦女か子供が番をして居る。家々に雞や大家鴨を4,50羽飼って畑に放って居る。或いは市街で工場が総て焼かれたままになって兵禍を見せて居るもある。ワルソーで珈琲を飲んで釣銭を取る間がなくて一杯十マルクになった笑われ話も残した。勿論文化程度は次第に低下する。ニゴリエシーで露西亜の税関が馬鹿に八ケ間しい、男の吏員が一応調べて済んだ所へ女が再調する文書類は存外寛大但し欧文の物は却々さうでなくて隣の女がひどく遣られる、自分は病妻に聴かせたいと思って買った蓄音機と孫に遣る積りの弄物などを押収せられ連れの友人も家庭用の活動写真機などをやられて、古箱に荷造りされて一緒にマンチュリ―へ送られることになり荷造費十ルーブルと手荷物料とを取られ後日マンチュリ―からの小包料税関などで大変な高いものになった。モスコーに着くと大使館の芝君が自分の町出身だが停車場へ迎えてくれ取敢えずサボイホテルへ落ち着いて極上の室を占領した。一渡り市街の状況を視ておこうと思い自動車を命じて市中を巡ぐり終に雀ケ丘から市全体の眺望を縦にした。午後八時にはレーニンの墓詣が出来るので出掛けるとクレムリン宮殿の前に列を為し時間を待つ民衆が早二三千も居る。次第に増して五六千になる物一つ言うものはない唯黙々たる中に宮殿の楼上の大時計がヅーン、ヅーンと鳴ると皆歩き始める、さしも大衆も墓を出てて来るに四十分余りで終わる秩序整然さだ。余り大きくない堂へ入ると、壁まで赤塗り階段を降り右に廻り今一度右に折れると左にレニンは三稜型の玻璃箱の中に右手を拳骨にし左手は掌を広げて仰臥して居る今方息を引取ったという相好だ、蝋細工だなどと言ふ人もあるが、長崎医大法医学の浅田博士に聴いたのに露西亜は屍体保存に於いて世界第一で眞物ださうな。
モスコーの大観はかうだ。レニン学堂を除けば新築らしいものはない唯宮城前の市営市場が他に見られぬ建物で立派で寒風を遮る装置を為し中道の両側に店舗を設け百貨を売って居る。貴族の物を没収した貴重品などは余り売れそうにもない。クレムリン宮殿も塀の外は革命の墓場と為り内は共産党の事務所住所と換わり貴族の舊邸は病院などに充当されて居る。(中略)
露国革命の由来は随分久しい。帝王貴族僧侶と人民の隔たりの餘に大きく暴虐が行われる所から虚無党の跋扈と為り、トルストイ文学の盛行となった頃から後日の計が早く講ぜらるべきに対症療法さへ碌々講ぜられず、加えるによしなき極東経営に手を出し日露戦争を勃発し、百戦百廃の失態瀆武となり、日本が瑞典方面からの宣伝が充分に効を奏して戦争が永続きしたら露国は瓦解の外なかったものだ。その創痍が未だ癒えぬのに大戦がはじまり遂に革命と為り共産制と為ったのは茲に書くまでもない、マーキシズムの実行者レニンでも予想せぬ所まで勢いに驅るる所は突進し来り徹底的に帝室を芟除し総てのものの財産を没収して共産制としたが国民はマーキシズムの草紙に供せられたのではなかったか。
一学究の理想を以って複雑なる国家社会に即行するにそれが見ん事しては全く奇跡である。労農政治が此の方らでも頭を打ち彼方らでも頭を打ち新経済策とまで変じきった経路を褲うて進み行く先を通観すれば遂には人生本然の處に還元復帰するのではあるまいか。恐らくは時間が解決する。
(以下の箇条書きは吉次郎の考察であるが一部を抜粋する)
第一にレニンはその信奉する唯物論からして宗教害毒論を説示し禁止したが人民が宗教を必要として承知しないから黙認の已むなきに至ったのみならず、彼自身が偶像化して毎夕数千の人に参られて居るのは皮肉だ。
第二、人民の行状に関してレニンは或る成功を得て得る。露人が昼と夜とを取り違えて午前二時に晩餐を食うて踊り明かして十時に及ぶことは止んだ午後十一時の踊りはなくなった、併し大戦初めに禁止した飲酒は勝手になってアルコール四十度のものまでは飲用を許して居る北米の禁酒が却って普及したことによってもこれが本然なのだ。
第三、経済に就いての革命だから露国が果たして経済上の幸福を増進したか否かが絶大の問題であらねばならぬ。然るに八時間労働となり且給料を厚くせられた六百万の労働者は仕合せには相違ないが、資本の無い露国には新工場は出来ぬから、今就職して居る連中は死ぬるまで罷めることはない。新たに職業を求めて之を得ぬものは為すことなしに無羅ついて居るの外はない、この無職者救済の方法は何も講じられて居ない、而も都会集中の世界的風潮は外国と沒交渉に近い露国まで波及してモスコー市民の数は革命前の四倍にも達して居るが如何に成行くものか宛度はない。
第四、吾々は毎に露国が外国の資本を歓迎すると聞かされる、資本無き露国が之を要求欲望するは当然すぎるが、何れの国か雅人が之に感じるか。完全に保証せられぬ限り資本を卸すものは無かろう。シツケルトシーメンスは二百万馬力の水電工事とシンガーミシンが少許の資本を卸す外に一つも外国資本は入ってこぬも道理ではないか。投資には余りに危険だからだ。
第五、文明の程度と幸福の尺度は国民の自由其の物である桎梏を免れんためには生命をも厭わぬのに露国には無論自由はない。言論、出版、集会、結社固より不能、信書の秘密もないものだ。新聞紙は御用紙のみでソヴィエット政府に都合の良い事のみを掲げる。外国のことなどてんで国民に傳へはせぬ。外国は資本主義だから駄目という位だ。外国の事情の知られるのを禁物として書物や信書までも度々受取るものには警察の眼が光る、民事と普通刑事は三審を経るけれども政治犯は一審限りで頸をちょん切られる恐ろしい事だ。
第六、或る者は言う、露国には後繼なからんと。その意は国土が無辺なる故に繁殖は之あり、されども鎖国同様のことなれば学者や芸術家を尊重はすれども後繼者は出ぬであろう
職工の新陳交代がないから熟練職工は出来まい、都市の家屋も国有だから今のが廃頽すれば露国式の矮屋となろうと或いはそうかも知らぬ。

 罪人流謫の外なかったシベリヤの広原が開拓された状況は旅人を驚かしむるに足る。露国に所有権を確認させ洽く富源を開発し彼我共に利するの方策を講ずるは急務だ、満蒙問題は勿論だ、世界に発展の余地が何程あらうとも近きより遠きにだ、民俗集中も立派な主義だ、外交にくだらぬけちをつけず、不断に戦時同様の一致を以って事に此れに従いたいものだ。