『無逸清家吉次郎伝』愛媛県会議員時代

 ブロガーは最近、吉次郎の自伝を入手した。教員、校長、郡視学時代は、以前のブログで紹介したが、吉次郎が教育界から政界へ転身するその姿を追った。

(愛媛縣會に現はる)
 芿家氏が始めて縣会議員に當選したのは明治四十四年十月の總改選の時であった。知事は伊澤多喜男氏で、前任の安藤謙介氏が政友會と相結んで計畫した七百五十萬圓の二十二箇年継続土木大計畫案を叩き潰し、三津築港計畫にまつはる大疑獄事件に依って政友會の首腦部を牢獄に叩き込んで政友會征伐の凱歌を揚げてゐる時だった。
芿家氏は縣會に於ても忽ち頭角を現はし、重要な人物になった。
夫れから昭和五年二月の衆議院議員選挙で代議士になるまで、氏はぶっとほしで二十年間愛媛縣會議员を勤めたのであった。
あれだけの學識、識見、抱負、經綸そして怒號咆哮の豪舌を持ち、しかも邪を排し正を尊び、一點の疚しさをも持たず常に正々堂々の論陣を張つて縣政のために盡した人間は縣政史上稀であり、まことに珍重すべきである。だから芿家氏が衆議院議員となって愛媛縣會を去った時は、愛媛縣會も當分墓場のやうな淋しさであった。反對黨の機関新聞でさへ拍子拔けがして、地方新聞の紙面は俄かにさびしくなつたほどだつた。(無逸伝より)

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大正15年1月1日発行の愛媛県政史』に、「芿家吉次那の呶號と松本議長の釋明」と題し、こう記されている。
…十三年の通常縣會は役員選舉で會期の三分の一を費した。役員選挙に端を發した縣會の紛擾はさらに幾多の波乱を惹起した。
政友會は脫走組四人を合して十九名の多数を擁してゐたが、県政倶楽部は議長、副議長を有つてゐたので、なかなか彼に屈しなかつた。政友會は幾度となく議長、副議長の弹劾をやつたが、相手はうまく之れを切拔けた。議長が彈劾されると副議長がピョコリと議長席にあらはれ、副議長が彈劾されると、今度はまた議長がピョコリと議長席におさまつて反對黨の猛襲を一蹴した。
議長の松本も、副議長の西村も、そうした場合、とても喰へない老膾な切れ味を見せた。
芿家吉次郎は、此の時の縣會で終始、すばらしい活躍をした。彼はあたかも阿修羅王の如く、暴風雨の如く、其の持前の「霹靂の舌」を使驅して呶號、咆哮、八ッ當りに當り散らした。
議長は幾度となく彼のために手古摺らされ、理事者は縮みあがつた。そこで議長は芿家に言論の取消を命じ、さらに退場を强要した。しかし芿家は頑として之れを受け容れなかつた。時の警察部長毛利文治は、遂に警察権の發動に訴えた。警察官は時を移さず佩劍をガチャつかせながら議場にあらはれた。さすがの芿家もそこでおとなしく退場した。
之れらの騷ぎで、政友對縣政倶楽部の争いが激成された。
更に「最近議長の椅子を贏ち得た人々(村上、深見、清家(吉)、野本、小野、松本等)と題し、
村上紋四郎と清家吉次郎との議長振りには殆ど共通したものがあつた。二人とも「縣會の虫」であった。彼らは記憶力が非常に强かつた。府縣制や議事規則の細かいところまで、よく呑み込んでゐたし、縣會の出来事や、古い政黨のいきさつなぞも决して忘れなかつた。しかし二人とも元氣があり過ぎた。議長席にぢつとおさまつてゐられないことが、たびたびあつた。清家吉次郎なぞは、議長席から怒鳴ったり、わめいたりした。
時によると、辛抱がしきれず、議席にかへつて呶號を敢えてするようなこともあった。
芿家吉次郎と、村上紋四郎は、此ころのに縣會に於ける二大闘士であった。二人は、すばらし舌をもつてゐた。芿家の舌が「霹靂の舌」であるとしたならば村上の舌は「獅子王の舌」であった。
二人はよく喧嘩をやった。二人の喧嘩は歴史的な因縁を有っていた。口だけではなく腕力沙汰に及んだこともあつた。清家と村上が、政友、憲政を、互い其の双肩に荷ひ、議場に於いて呶號、咆哮を敢てする場合には議場が俄かに緊張し、傍聴人の喜びは、とてもすばらしいものであつた。それは、芝居以上、活動写真以上、相撲以上の面白さであった。
村上が議席を去って以來、清家は其の好敵手を失ひ、縣會は彼の独壇場となつた。憲政会には西村兵太郎、宇和川濱藏、木黨に松田喜三郎らの猛將が居たが、清家、村上の抗争時代にくらべると、議場は頓にさみしさを増した。…と記されている。