『無逸清家吉次郎伝』代議士時代 2

臨時議会6月6日の予算総会第3回目に小波乱があった。
児玉議員が齋藤首相に「国民窮迫の折、徳政を断行する考えはあるや無しや」と問うたが、首相はシドロモドロ。ここで吉次郎は「首相は徳政という言葉をご存じない、一国の総理大臣として言語横断である」と、歯に衣着せぬ弁舌に吉次郎の面目躍如である。
東京朝日・岡本一平氏の漫画には、吉次郎が突如として立ち上がり、手を差し伸べて発言を求めている様子が描かれている。(無逸伝引用)

 6月8日の予算総会に於いては後藤農相に米穀法の杜撰な点を徹底的に論じた。無逸伝には速記録が遺されている。
農相の答弁は清家氏に滿足を與へなかつた。午後農相が引続き出席されたならば、蠶業に關する諸問題を各方面より論じ、養蠶家自身に大統制機關を作らしめ-終始ー贯利益を完收せしむるの方策を立つべきこと、生絲の売場を米國に限るの不利を說き、南米十一箇国、拉典民族の華美を競ふ性情を利用して彼地に絹織エ場を設值すべしといふやうな、生絲質易上の問題にまで言及するつもりであつたが、遺憾ながらこの質問は打切らざるを得なかつた。
 荒本陸相攻擊と其のセンセーション
同日午後の豫算總會には荒木陛相の出席があつたので、芿家氏は堂々左の如き質問を試みた。この質問が芿家氏の名を一躍天下に知らしむるに至つたのである。(速記錄は無逸伝にあり)
この荒木陸相に對する質問が各方面に與へたセンセーシヨンは異常なものであった。政友會の人々は勿論、民政黨の人々まで敬意を表する。荒木陛相は廊下で芿家氏の肩を叩いて、
「難有う、御深切な御忠吿を下すってありがたう。將來も何うか足らざるを補ふやう御注意を願ふ」といふ意味の挨拶をした。花月の宴會に於て、政友會の長老以下が賛辞を呈したのは云ふまでもない。併しこの質問演說は芿家氏に取っては格別案を練ったりしてかゝったものではない。殆ど無準備のまま火藍を切ったのであった。
當時は五 •一 五事件以來、未だ一简月も經て居らず、事件の眞相の如きは固より究むベくもない。ただ世を挙げて一抹の不安の氣が漂へるのみであった。事件の性質上、當然議會の問題とならなければならぬに拘らず、政黨者流は軍部に對し萎靡して意氣揚らず、一向發言する者が無い。贵族院に於ては上山滿之進氏の質問があったけれども、これは政黨罵倒に終始し、事件の責任を問ふものにならなかった。政友會からは宮脇長吉氏が起ち筈であったのだが、有力な人々に阻止されて發言し得なかったので,芿家氏が敢然身を挺して最初の質問に當ったのである。次いで宮脇氏も陣頭に立ち、陸相に對する質問は略々首尾全いものになったのであるが、先陣の功はどうしても芿家氏に譲らなければならぬ。
新聞紙は筆を揃へて、この日の芿家氏の武者振を傅へた。さうして有名ならざる芿家氏が堂々正面から陛相に肉薄し、率直にものを云つてのけたことに對して、一樣に敬意を表してゐる。芿家氏をして「平凡なりし六十ニ議會」と評せしめたこの臨時議舍に於て、何が最も異彩を放つたかと云へば、実に芿家氏の質問だつたのてある。下村海南博士が「近的クソミソのやうに言はれてる政黨者流お爲め、君ありて辛くもそこに一脈の光をなげた」と云つたのは決して偶然ではない。
芿家氏がこの挙に出でたのは、奇を好み名を売らんが爲ではない。國家に對する一片耿々
の志から「誰か遺らねば議會の任務が盡されぬ」と信じて、敢てその任に膺つたのである。誠心誠意、その所信を披露したまでであつて、それが斯くまでにセンセーションを與へたのは、如何に已むに已まれぬ至誠の人が世の中に少くなつたかを語るものであらう。
と記されている。
 新聞雑誌の怒涛的禮讃無逸伝には新聞、雑誌が多くの紙面を割いて吉次郎を激賞しているが、各紙の見出しを列記すると、
時事新報……国軍粛正を叫びて陸相に鋭きメス
(未だ見ざる果敢な質問ぶりに予算総会稀に見る大緊張)
      陸軍大臣は平素言葉が過ぎる
(清家氏の忠言に次いで宮脇氏軍人政治干与を難ず)
大阪朝日新聞…敢然陸相に肉薄
      (腹には毒気なく愉快な存在―清家代議士)
東京朝日新聞…院外の眼が怖く野次喧騒を慎む  
      (政党やむなき進境)
東京日日新聞…かかる意味からいって,豫算總會において名も無き一代議士たる芿家吉次郎君が、ひとり敢然として陸相留任に對する質問を試みその真摯率直な態度に聞くものをして厳粛な氣に打たれしめたことは、とにかく今議會における一服の芿涼劑だつた。
現代……八月号、下村海南博士の「現代方言」
中央公論馬場恒吾氏の「現代代議士論」
 
議会終了後、吉次郎は議会開会中の経過を述べた「第六十二議会に於ける私の存在」というパンフレットを作り、一般の知己に配布した。