『無逸清家吉次郎伝』吉田町長時代 1

 ㈱海南新聞社・大正12年11月発行の「愛媛県人物名鑑」北宇和郡の部に清家吉次郎のことが詳しく掲載されている。

芿家吉次郎吉田町長 県会議員 北宇和郡吉田町北小路甲48番地 慶應2、9、14生
妻 リヨウ 明治3、10、30生
長男 美材  仝26、9,3生
長男妻 章子 仝32、8,26生
長女 君枝  
次女 タズエ 明治34、8,27生
三女 伊勢  仝38、11、26生
孫 隆    大正11、5、21生

 君は源四郎の二男なり、明治22年本県師範校を卒業し喜多郡大洲尋常高等小学校へ赴任、各校長に歴任し明治32年県の表彰規定により一等賞を授与せられ、仝33年4月南宇和郡視学となり爾来伊予西宇和、北宇和郡視学を経て明治44年4月周桑郡視学に任命せらるるや即日辞表を提出し官界を退く、仝40年11月文部省より教育界の功労者として金一百円を授与せらる、仝44年9月北宇和郡より選出せられて県会議員となり議長に当選して今日に及ぶ、その間大正3年4月縣参事会員(2年間)仝8年12月より仝10年12月まで議長を勤む、大正7年9月吉田町長となり火葬場、伝染病舍、学校問題、架橋、町立病院を完成す、其他愛媛県財務調査委員、帝国水産会議員、四国循環鐡道速成同盟会委員、宇和運輸會社監査役広見川水力電気会社社長、宇和柑橘同業組合長たり、大正12年9月再び県会議員となり今日に至る、長男美材は山形高等学校教授にして妻リヨウは吉田町山本封教の長女明治24年入嫁す、長男妻章子は宇和島市菊池綾五郎の長女にして大正10年入籍し、長女君枝は佐賀県松浦郡名古屋玉次郎と結婚せり、玉津村高月一郎右衛門は君の親戚なり

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「無逸伝」吉田町長時代には
 …芿家氏が吉田町長に就任したのは大正七年九月十三日で、あの全國的な米騷動のあった直後であった。縣會議員としても旣に政友會陣営に於ける闘將としての華やかさを見せてゐた時であり、相當の箔もいてゐた時であつて、吉田の町長としては勿論申し分のない人物であつた。
吉田町としても,鳥羽町長の辭職に依つて、新しい策一步を之れから踏み出してゆくべき轉廻期に立ってゐたので、遂に滿場一致で芿家氏が町長に推薦された。(中略)
芿家氏は、此の自分の觶里に隣つた、そして少年時代からの因緣淺からざる、親しみ深い吉田町の爲めに、死ぬまでの十七年間、町長として町を熟愛し、町を生かすための多くの仕事を残した。あの小さい一つの町に、しかも宇和鳥市と云ふ南豫の中心都市を眼と鼻の近くに持つた吉田町に、中学校や女学校を創設し、堂々たる町立病院まで設置したと云ふ事は、何としても芿家氏の大いなる功績であらねばならぬ。しかも死の直前まで町の事を忘れ得ないで,「吉田町民に遺言す」を書き遺してゐる。これほど町を熱愛し、町發展のために身心を捧げて盡瘁した町長は恐らく他に求め得ないであらう。
吉田町民は、どんなに芿家氏のために立派な頌紱頌功の措置を圖つても決して過ぐるものではないだらう。…と記されている。