『無逸清家吉次郎伝』 代議士時代 1

 無逸伝に「芿家代議士と支援団体無逸會」とあり、
 …芿家氏が衆議院議員に當選したのは昭和五年二月と、昭和七年二月の總選挙の時であった。元來云へば今少し早く代議士たるべきであったのであるが、愛媛縣民は代議士たるよりは矢張り愛媛縣會議員の芿家として縣會に居残って贳ひたかったのである。芿家氏が縣會を去つたならば、愛媛縣會に於ける興味の大半は失はれてしまふし、縣民はいつまでも氏のあの霹靂の舌、怒號咆哮を聞いてゐたかったのである。氏も亦二十餘年間の華々しい縣會議員生活に對し相當强い愛著を持つてゐたのではないかと思はれる。でなければ深見寅之助、村上紋四觔氏等についで當然代議士たるべきであったのである。芿家氏が決意さへすれば代議士たるべき事は容易であり、決して落選はしなかつたであらう。勿論芿家氏と雖も常に當選を期する事は不可能の場合もある。現に昭和三年二月、始めて氏が出馬した時は、不幸落選した。夫人を喪つたのは其の政戰の最中であり、此時ほど氏にとって不幸な時はなかった。氏の落選は夫人の逝去と併せて縣民の心からなる同情を集めた。落選の原因は政友會愛嫒支部幹部が某氏の當選を期するために、氏の出馬を斷念せしめんとしたり、地區割其他についても氏に對し不利な策戰を採つた爲めだと云はれた。
併し氏は次の昭和五年の總選挙に於て遂に目的を達した。東京に於ける愛嫒縣人有志は氏の代議士たる事の遅きを氏のために惜しんだ。
「もう十年早く出たならば必ず衆議院に於ても、愛媛縣會同様名物男になるであつたらうに」と。しかし其の當選を祝し、且つ今日まで縣政のために盡し來つた功に酬いると共に今後中央政界に於ても大に國家憲政のために活躍して貫ひたいと云ふ意味に於て氏の雅號無逸に因み「無逸會」を組織し、氏の政治的支持団体、後援団体として六年三月五日、日比谷公園松本楼に於て其の發會式が挙行された。…と記されている。

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 本ブログでは、以前に吉次郎の衆議院での国会議論を紹介したが、無逸伝には詳細にその様子が書かれている。
(其の晩年を飾った第六十ニ議會 附、「紱政」の喰違ひで齋藤首相を追撃す)
 …少し出遲れて惜しい事だったとは思はれてゐたが、夫れでも「議會でも何かやるぞ」と云ふ期待は、芿家氏を知る人々は皆持つてゐた。
此の期待は裏切られなかった。果然芿家氏は五月二十三日を以て招集せられた第六十二議會に於て芿家式を発揮し、共の存在を明らかにし、その晚年に於て最も華かな場面を示した。これによつて今迄さのみ有名でなかった芿家吉次觔の名は、忽ち中央政界の話題に上るに至ったのである。
元來この臨時議會は犬養內閣の下に開かるべきものだったのであるが、突如として五月十五日の兇變があり、當時全國町村會に出席すべく北陸に在った芿家氏は、金澤に於て犬養首相遭難の報を知り、町村會の委員長の任を濟すなり急遽上京したのであった。犬養內閣は卽座に倒れ、齋藤内閣が出現した。議會は五月ニ十三日を以て招集されたのであるけれども、新内閣組織の爲に休會の形となり、漸く六月一日を以て開院式を挙げさせられたのである。會期半箇月、大體に於て犬養內閣の政策を踏襲したものであるとはいへ、異常な前奏曲の後を承って、この議會が一種風霜の氣を帶ぶるに至ったのは、怪しむを要せぬであらう。
芿家氏は予算委員の一人に加へられたので、最初から大藏、陸軍、農林諸大臣に質問するつもりであったが、なかなか順が廻って來ない。ただ豫算總會第一日たる六月二日には、戸籍上年長者たるの故を以て投票管理者を勤めた。而して委員長選擧を了って後、席を大ロ喜六氏に譲って退いた。(つづく)