『無逸清家吉次郎伝』追想編

本ブログで長らく続いた無逸伝もエピソードを数点掲載し終了する。

在京愛媛縣人の有志が議会開会中に縣出身の代議士を招待し慰勞の莊を張つた。芿家氏は會場で相當飲み、それから又二次會だと云ふので、村松恒一觔氏と宇都宮政市氏と三人で飲んで、陶然と其家を出た。もう相常の夜更けであつてもう飲みに行く家も見當らなかつた。
「おい何うぢや、俺は斯う云ふ時があるだらうと思うて此處にも蓄えてゐるんぢやよ」
とステッキを二人の眼の前へ突出した。握つている所をぽんと拔いて口へあてると瓢箪やうに酒が溢れ出た。氏はそれを飲みながら深夜の街を歩いて歸つた。
「清家が女に生れて藝者にでもなつてゐたら、一人で百人前位は勤めるだらう」
と宇都宮氏が話してゐた事があった。

麻雀
芿家氏は麻雀が一番嫌ひの様であった。それで吉田病院連中の麻雀黨に逢ふと、何時も口癖の樣に「麻雀は支那の遊戯で、支那は麻雀と阿片で亡んだのだ。そんな亡國的な遊びはするな」と言ひ聞かしてゐた。ところが或日の事、連中の處へ氏がにこにことして入つて來て、「今日は俺も麻雀をやるから、さあこい」と云つたので、一同待つてましたとばかり後ろから従いて道場である二階へ上りかかつた。すると氏は一番先にかけ上つて、麻雀道具を抱へるなりどんどんと降りて來、さつさと自宅へ引上げてしまつた。一同は後を見送つて、恰も鳶に油揚げをさらはれた時の様に唖然としてしまつた。しかも共の道具と云ふのが借り物で、大變に心配したのであったが、令嬢の計ひでやっと氏へは内緒で返して貰う事が出來た。後で聞けば「あんな物は燒いてしまふ心算であった」との事で、一同やれやれと胸を撫でおろした。

ジャパンタイムズ・芝染太郎の手紙(芝一熈の手記より)
(前略)芿家町長と云ふ奴も変わり者だなア、慥か豪い所が存るわい、アイツこそ議會に擔
ぎ出したかつたなァ、アンナ男で無くちや日本では仕事が出來ぬのだよ、衆議院議長正三位芿家吉次觔となる可き男を町長として居る譯ぢやケン吉田も豪いよ、さう考へて見ると世の中は變だ變だ、アノ男よりズツと劣つた奴が天下に名を成して居る、世の中は可笑しい世の中ぢや、吉田町長で今ほどの仕事をやらかしとんなはる方が東京で名を唱われて居るよりも腕の上から言ふと餘つ程豪い譯だケン、吉田の吉やんや瀧やんが若い顷から都會に出とんなはると吉田人もヨツポド面白い芸當が出來たらうにナアモシ、ムシンな事をしたもんですぜなァ、此節の政治なんか見なハイ、物に成つては居ふんぞな。馬鹿らしくてお話にナリマセナイ、これで日本が歐米と肩を並べて行けるモンカイ、イケルカイ、ア
ガイナ事だけシトツテ……(下略)

清家寸談  山下亀三郎……膻濱に行つてささやかながら獨立し、霞町一丁目に借家ではあるが一戸を構えてゐた時、芿家は愛媛縣の郡視學であり、文部省で全國の郡視舉講習會があつて來たと云ふので私の横濱の家を訪ねて來た事があつた。そして、「あんたはこんな家へ入るやうになつたか」と云つて大變喜び、一緒に酒を飲んだ。
私が神戸の諏訪山の東常盤に宿泊してゐる時であった。芿家が私の父を連れてやって來た。「芿家は今度郡視學をやめて縣會議員にならうと思ふと云ってゐる、ぢやが金が七百円ほどいる。それをお前に出して贳ふ事は出來ないか」
と父が云った。其の七百円で芿家は見事に縣會議員に當選した。あとで聞いてみると、私の父は芿家を縣會に出したいために、私に相談に來たのであった。
縣會議員になっても、郡視學をよしたのだから、芿家には一定の收入と云ふものがなかった。そこで東洋生命保險會社の地方出張員と云ったやうな仕事をやった事もあるし、宇和島運輸會社の監査役をやった事もあった。
その後北宇和郡長の松田虎次觔と云ふ人から「芿家を吉田の町長にしたら何うであらうか」と云ふ相談があつたので、私は「それは名案だ。吉田のためにこれほどいい、名町長はあるまい」と手を拍って賛成した。果たせるかな芿家は全國に於ても類例のないほどの、あの小っぽけな町で、あれだけの多くの仕事を爲し功績を遺した。
縣會議員としての功績もこれに劣るものではなく、議長としても斷然光ってゐたし、衆議院では第六十ニ議会で一躍其の名を天下に高めた。
昭和ニ年には歐米を巡遊し「歐米獨斷」の快著を印行した。芿家の識見を最も雄辯に語るものである。唯、今でも遺憾に思ふ事は「何故あの時、豪洲や印度、アフリカ等を巡らせなかったか」と云ふ事である。夫等の地方を巡遊させて、あの「歐米獨斷」を書かせたならば、更に素晴らしいものを書いたに相違ないと思ふのである。

一句
永遠に紅梅香る吉やん忌