『無逸清家吉次郎伝』吉田町長時代 3

《吉田病院の設立》
 吉次郎が町長に就任した翌年頃には吉田町に病院を設立する機運が起こり、吉次郎はその計画を立て寝食を忘れて設立に向け没頭した。欧州大戦後の大恐慌が起こった大正9年に資金を集めたが、大戦で儲けた余力があり存外に資金の見込みが立った。組織は町村組合として吉田町が七割、五ケ村が三割を負担した。問題は名医を如何にして手に入れるかである。吉次郎は亀三郎と心易い東京物療(東京帝大)の眞鍋嘉一郎を訪ねた。
吉次郎の後日談から
「実は昨年より設備に掛つて病院の物的方面は先づ出來上つたが、醫師の方は是非先生にお褚み申して天晴名醫を御周旋願ひたい、平凡な人では折角の企ても無用となるから、くれぐれも其の点を空しくせぬやう、先生を信頼して出京した次笫である、人選と俸給とは御一任する、人さえ良くば五千、七千、一萬と雖も差支は無い。何分宜しく」とひたすら褚み込んだ。すると眞鍋さんは承知した。如何やうの人を望むのかと問はれたので、うつかり「素人受けも必要だから成るべくは学位を持つ人を」と云ふと、眞鍋さん忽ち顏色を惡くし、「君でもそんなことを言ふから困る、医者は病氣を癒すのが第一だ。そして日本には臨床博士は無いからだめぢやないか、何れも羊頭狗肉ぢや、どうせ吉田邊へゆく博士ならそれは濁りを打つべき人で駄目だ。病氣さへよく癒せば誰でも可いぢやないか」と真向から打ちおろされた。それは御說の通りです、御心當りもあるべき筈なればなるべく早く、と褚んで置いたが、容易に選定の返事が來ぬので、九月に催促に行つたら、「實に濟まぬが吉田でそんなことが出來る筈が無い、失禮ぢやが.法螺でないかと疑つてゐたが、六月に土居君(雪恵)をよこされて本當だと判ったので、本氣に銓衡して、これならばと信ずる方を捉へたから逢うてくれ」とて、富士見軒へ案内され、伊藤醇造、奥泉長太觔の二君を紹介された「甲は内科で僕の所で六年も修業し、諏訪へ世話したけれど氣が向かぬ様子だから君の方へ行つてもらふことにした。乙は外科で甲と同年の卒業で十分の手腕の持主だ」といふことで、やつと望みの人を得たわけであつた。

吉田病院は大正10年10月10日開院した。舶来品が不自由なときにウエッシング製レントゲン一台を手に入れた。開業すると多くの病人が押しかけ、伊藤院長の名声は日に日に高く神様のような人だと感嘆された。
吉次郎の提唱に讃して病院建築資金を寄付した主な人々は、
二萬五千円 山下亀三郎 五千円 村井保固 一千円 男爵森村開作 
一千円 今西林三郎 五百円 子爵伊達宗定 百円 飯野逸平 等々
であるが、地元出身の亀三郎は多額の寄付をしたが、吉次郎の人望であろうか、町外の篤志家からも寄付が集まった。男爵森村開作は7代目森村市左衛門で6代目森村市左衛門の次男である。村井保固は6代目の片腕と為りアメリカ・ニューヨークに創設した森村組を、盛り立て支配人となり活躍した。彼の弟子、飯野逸平は、吉田町の出身で1904年に日本陶器に入社し、1912年30才のとき、ニューヨーク行きを命じられた。吉田三傑の一人・村井保固の鶴の一声で、森村組関係者から建築資金が寄せられたのであろう。
無逸伝には、…芿家氏の爲に、二三附記したいものがある。芿家氏は最初に醫師の銓衡を眞鍋繁授に托して、以來同繁授とは意氣投合、肝胆相照す間柄となった。後年犬養内閣第一の臨時議会に、芿家氏が濱口首相の容態間合係となつて、眞鍋繁授を困らせたこともあつたが……。
併し最後に病を獲た時、眞鍋繁授は外遊中であったので、東京に居りながら一回の診察も受けることが出來なかつた。これは病める芿家氏にとつて心殘りであつたのみならず、眞鍋繁授も恐らく歸朝後遺憾とされたに相違あるまい。…と記されている。