『無逸清家吉次郎伝』吉田町長時代 2

(山下高等女學校の創設)と題し無逸伝にはこう記されている。

…芿家氏が町長就任に先って、第一に計画したのは女學校の設立であった。これは芿家氏自身にとつては,かなり古い問題であって、明治三十七、八年の切、西宇和郡視学として八幡濱商業擧校の創設に盡力し、町立八幡演女學校を創立した時から、吉田にも是非実科女學校を設立したいと考えたのであった。丁度その頃村井保固氏が歸朝したので、会談の機会にその希望を述べたのであったが、村井氏は「何れ觶里の爲に何とかするつもりではあるが、まあ少し先にしてくれ」と云ふ事であった。で此時は遂に芿家氏の希望を實現するに至らなかったのであった。
それから十年以上も經過した大正四、五年顷、吉田町有志の間にも女學校設立の聲が起り、吉田小學校に實科女學校を附設するの議が進んで來た。常時芿家氏の乳兄弟たり竹馬の友である山下亀三郎氏は社外船主として斯界に擡頭し來った時であったので、山下氏にもこれが出資を乞ふこととし、此の使者には芿家氏が最適任者であるといふので、早速上京、山下氏を說くことになつた。
ところが芿家氏が出發して著京したかしないかといふ時分に、もう「山下氏快諾、差當り三萬円出す」といふ意味の電報が舞込んだ。之を手にした町有志竝に町民の歡声は知るベしであつた。
最初の小っぽけな小學校併置の計画は變更されて、新たに獨立した實科女學校を設立することになつた。しかしそれには第一に良校長を得なければならないので、芿家氏自ら山下氏を下關に伴って、當時長府の小學校長兼女子實業補習校長であった宮本健男氏を招聘することにした。芿家氏は顧問として、四名の理事と共に敷地の購入、校舍の建築、職員の任用、生徒の慕集等に著手し、大正六年四月にはその開校を見たのであった。これが現在の山下高等女學校である。

***
大正8年宇和島案内発行所から出版された「宇和島案内:附・北宇和郡案内」(著者栗本露村、 浅井伯源 編)に「吉田町と附近」と題し吉次郎、亀三郎の事が記されている。
◇吉田の現在
吉田の町は立間、喜佐方、奥南、立間尻の4か村で東西北の三方を囲まれ、南に海を抱へた少さい市街である。夫れでも戶數一千餘を算し、五千五百の人口を包容してゐる、近米交通機関が発達して字和島との往来も自由になつたので、吉田の商業は次如に其繁栄を宇和島に奪われるやうになったけれど、製紙、織物等の工業が盛んで、立間、喜佐方には有名な蜜柑や筍を産出し、漁業も相当盛んなので町の懐中は頗る豊かである。町内には特設電話もあり、工場も多い、殊に喜佐方出身の山下亀三郎氏によつて建設された山下實科高等女學校もある、现町長は縣會議員中での雄弁家清家吉次郎氏である、今治屋、左海などの旅館もあり、料理屋もあれば芸妓もゐる。
◇奥南の間口。
吉田から南へ海岸に沿ふて行くと、奥南村の奥浦に間口といふ大潮の時には漸く和船の通ひ得るやうな地峽がある。寛永三年東宇和郡法華津村の庄屋新蔵人が、資産のあるまま鷹を飼育したといふ科により、間口の掘割を命ぜられ、長さ百十二間、幅三間予を浚渫した、が今では小船も通り兼ねるほどになつてゐたのを、山下亀三郎氏の寄付金を土台として大正七年から、北宇和郡の事業として掘割工事に着手している。此の掘割が出来上がれば東宇和郡との海路が大ぶん短縮されるので、地方の海運に便すること多大であらう。
(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)