吉田三傑「村井保固傳」を読む 17

値段附けの改良

村井は日本からくる品物に1弗のものは3弗と符牒を付けていたのを、商売仲間のギリシャ人の話からヒントを得た。つまり「Taste is not disputable」という古いことわざを聞かされて米国人は品によっては原価の4倍5倍でも喜んで買うということである。
豊さんは(なるほど、それが良い)と云って森村組の売価に一大変革を与えた。
明治14年2月商売繁盛で店が手狭になり、15丁目221番の空き家に引っ越した。
村井は米国人相手の交渉を全て任された。宮本一人の注文取りをアメリカ人を雇ってボストン、フィラデルフィア方面を託した。宮本はシカゴ、バルチモア一帯を担当し上々の成果を上げた。
明治14年フランス巴里に万国博覧会が開催され、豊さんは日本から来た兄市左衛門と渡欧することになった。その折、市左衛門と村井の給料や配当の美談は2017発行のブログ本の通りで略すが、森村と村井の関係はサラリーマンでもなく無論独立経営でもない。云はば両者の中間に一種風変わりな間道を往った所に村井の特色がある。
豊さんは几帳面で正直、厳格な精励恪勤の性質。一方の村井は誠実、勤勉、勇断果決もあるが、何処やら茫洋として高所大局を掴む所は豊さんと相対して、実に絶妙なコントラストをもたらした。
お二人の日常、豊さんは朝の出勤で分秒を違えぬ正確ぶり、村井は遅刻して後からノコノコ出て来る。
『オイ君は時間後に来るから晩にはそれだけ夜業をするんだよ』と云えば村井は『オーライ』と笑って答える。その代わりお客が見えると夢中に商談を続けて満足に送り出すまで、食事も退出も一切忘れてしまう。如何なる場合にも客を外らさない、お得意に失望させないというのが村井の信条だった。

***
村井保固傳にこのような事が書かれている。
村井の活動圏は太平洋を跨にかけた世界の大舞台であるが、仕事の中心は森村組と云ふ一商社である。事業の範囲は極大であるが中心は極小の一点に結晶されてあつた。相手はより嫌いなしの世界人である代りに帷幄のインナア、サ—クルは十指に足らぬ少數同志である。
商売の視野は世界的コスモポリタニズムであるが、村井の存在は狹い日本内地でも多く知られなかつた。米國人を妻とし五十年米国に家を持ちながらバター臭い所は微塵もなく、ダンスを知らず英語の歌も口にせず、ゴルフを除いては趣味も嗜好も娯楽も總て日本流一色である。


( 村井保固 明治18年1月)

(初期のニューヨーク森村店)