吉田三傑「村井保固傳」を読む 20

森村翁と衝突

村井が大阪で仕入れた提灯30箱で森村と衝突し、大倉が中に入って収めたことはブログ本に掲載したが、保固伝には(これが前後50年の長年月を親子の如く兄弟の如く親密に通した両人の間に於ける唯一の大衝突で、所謂雨降って地固まるとは此の事であらう。双方ともはじめて相手の胸中に骨も有り信念もあることを知り、爾来互いにそれを尊重するのであった)と記されている。
村井は帰朝後、当面の用事をかたずけ、国許から父母を招いて名所古跡を案内、芝居見物をさせ初めての親孝行をした。両親を喜ばせた村井は更に、多年の恩人、福澤先生に奉仕する機会に恵まれた。福澤先生の二令息一太郎、捨次郎を、帰米の際に紐育へ同伴してくれとの頼みである。しかし村井は大事な二令息を預かり帰米の途に就いたが、紐育に向かう列車で乗換えを間違って山間の僻地に下車させられるという飛んだ弥次喜多の失敗を演じた。
村井は帰米前に福澤先生から(君も最早年ごろで本業に邁進する立場にあるが、一つ西洋人と結婚してはどうか)と熱心に勧められた。理由は、西洋人は日本人を軽蔑す傾向にある、結婚を承諾すれば日本人を軽蔑していない証拠になる、西洋人との結婚は日本の人種改良に役立ち追々体位向上になる、米国で事業をする以上、米人と結婚する意気でなくてはならぬ、彼の地の人情風俗に精通し事業にタイシタ効能がある、というものである。
村井は森村に(先生の御言葉ではあるがソンナ馬鹿なことが出来るものではありません)と反対論を述べると、森村は(ソリャそうだ、日本人にアイヌと結婚せよと云うやうなもので到底ものになる筈はない。君だって左様な国際結婚は嫌だろう)で話は終わった。だが、天道様も時には偶然の悪戯をなさる、明治18年次の帰朝には花恥ずかしい米國婦人と新婚の夢を載せて太平洋を故国に蜜月旅行をしたのである。
その頃、福澤先生から村井に宛てた手紙の端に左の一首がある。
  思二子航干米國在太平海上
 月色水聲遶夢邊 起看窓外夜凄然
 煙波萬里孤舟裡 二子今宵眠不眠
子を遠方へ手離し候へば、會而自分の壮年壮遊の事は忘れて漫に案じくれ申候。
村井が紐育に帰って安着の通知をすると、福澤先生から明治16年8月17日付の長々な御礼の手紙がきた。ここにも漢文が記されている。

 諭吉 村井君 悟下
努力太觔兼次觔 双展々翼任高翔
一言尚送餞行意 自國自身唯莫忘