吉田三傑「村井保固傳」を読む 19

第1回の帰朝

明治14、15年の日本は西南戦争後の不況に襲われ、米国の経済界も同じ不振の状態であった。豊さんは過労も応え健康を損ね、日本に帰って銀行でもやろうと弱気だった。村井は目前の不況はさることながら将来は洋々たる春海の希望がほのめいていると、このまま引き上げるのは惜しいと首を傾げた。この時村井は豊さんに小売りから卸売りに転換しましょうと提案した。豊さんは小売り卸しの両建てにこだわる、毎日議論しても際限がないと兄市左衛門の裁断を仰いだ。森村の返事は流石の明断を下した。
「豊さんの意見も一理あるが、森村組の建前は単に利益のみを目的とするのではない。大いに日本商品を海外に出して国家に貢献したい。この見地から大量輸出を図る卸し専門が得策であろう」と、村井説を賛成し鶴の一声で決まった。
方針が決定し、卸売りに適当な場所のスプリング街ブロードウェイ538に引っ越した。
村井は商品の仕入れに(今度は一つ私を日本に遣ってください)と申し出て豊さんは快諾、明治15年12月クリスマスが終わって紐育を出発4年目の初帰朝となった。
明治16年1月、村井は自分の献策が容れられ店は卸し専門となり、第1回の仕入れという大任を負うて帰国した。
早速、村井は大倉と同伴で、海路神戸へ行き、京阪から京都に廻り琵琶湖を船で渡り人力車で名古屋に行くという汽車の無かったころの難行で、当時取り扱っている多種の日本製品仕入れた。商談に奔走した村井は疲れ果て一睡を採るが、折々目を覚ますと大倉は計算と帳面に余念がない、この大倉の熱心な徹底癖に村井が感じ入ったのは此の時からである。
森村組の商売のやり方は三人三様で、大倉は商品の仕入れで材料費、加工賃、利益云々と精細に計算し極度まで値切った。村井は大括りで値段を決め、森村組ではこれでしか売れないと相手に迫った。森村は高値で買ったものを店員が難色を示すと、(この品物は至極精良に出来て居る、これで商売にならんというなら君らの売り方が下手な証拠だ)と逆襲して参らせた。


(森村豊の第2回渡米出発の際/明治15年6月)
大倉孫兵衛(後右)広瀬実栄(後中)森村市左衛門6代(中央)森村豊(後左)

意気颯爽たる村井保固(前右)と大倉孫兵衛(前左)
明治18年1月京都にて