吉田三傑「村井保固傳」を読む 29

陶磁器製造に工場制度(附 ローゼンフェルト)
日本陶器会社が創立され西洋の新式機械を導入した。先ず純白生地が出来て八寸皿の大物も強生地で立派に出来る。これに日本特有の意匠と技巧を加味し鬼に金棒となった。それにより製造高が激増、明治38年の窯出し12,500円が大正9年250万円となった。此処まで漕ぎつけたのは、大森村の統卒宜しきを得て、村井の献替大であったが、尚、殊勲中の大部分が大倉父子であったことに依存を唱えるものはない。
明治36年、61歳の大倉は欧州各地を見て啓発された。英国のローゼンフェルトと大倉は胆管相照らす間柄となった。熱烈な事業精進家のローゼンフェルトは「人間は金を残すよりも事業を残すが善い。金銭は多くの場合子孫に害を与えるとも益を与えない。然も正統なる事業は永遠の寿命を持つからこれほど貴重な遺産は外にない」と平生から云って居た。
更に彼は、装飾品、玩具向きは排して実用品を作れ、それには思い切って精良品を作れ、然らば利益は自然についてくると云った。
特にローゼンフェルトの談話は大倉の胸を打った。要すれば「日本の陶磁器界が東亜に9億人の市場を持っているのは非常な天得、仮に9億人が一人一個10銭の茶碗を買ってくれれば9千万円になる。況や東亜の文明進歩と生活の向上が必至で、今より市場開拓の手を付けて置いたら、将来の結実驚くべきものがある」
斯くのごとく30年昔に今日の大東亜共栄圏を見透かした高邁の見、遠大の識が天馬空をゆく大倉の琴線に雷のごとく響いた。   【村井保固傳は昭和18年発行】
その中日本陶器会社が成長し、東洋陶器が生れ、日本碍子、衛生陶器と次々生長、最後に着手したのが大華窯業である。ローゼンフェルトの理想と大倉の事業熱が実現の緒に着いたもので、正しく森村組二世三世に残された明日の大事業である。

陶磁器輸出貿易と森村組

日本の対米貿易の数字は、明治7年・製茶693万円、生糸12万円、陶磁器1万円であるが、明治30年・生糸6,074万円、製茶1,100万円、陶磁器193万円となり、大正6年・生糸3億617万円、製茶1,864万円、陶磁器494万円と陶磁器は着々と進境を示した。
更に昭和12年の陶磁器輸出額は5,397万円と飛躍的増進となった。
自伝には、
惟ふに日本の陶磁器製造事業が斯くの如き急激なる発達を見るに至った成功は、森村組の独占すべき筋ではないにしても、過大半の分け前が森村組に帰することは何人も依存を挿む余地のない所である。更に明治維新以来、各種の産業が勃興して、今日の富強日本を造り出した其の中に、図抜けて一商社の努力に持つ所の最も多い事例は、三菱の海運と森村組の陶磁器業であらう。一対双璧の陰に地下の森村、大倉、廣瀬、村井の四翁以て瞑すべしである。

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或る航海の時、村井は日本の俳句を硏究して居つた一米國人と同船した。1日両人の間で「古池や蛙飛びこむ水の音」と云う句の話しが出てどういふ意味かその神髓が解らぬと語り合ふたものである。其の後ほど経て紐育の街上で偶然この米人と出逢うと、彼はいきなり、「村井さん。あの芭蕉の句の意味が解りました。あれは靜中の動を現わす所に無限の妙味があるのです」。と云ひ喜んで手を別つたが、『ー體に俳句とか歌とか云ふものは文字だけ素読みしたのでは神髓を摑むことがか出來ない。此點になると書籍でも同じで、よく吟味して紙背にこもる意味を汲み取る所に、眞の妙味が出るものだ』。とは村井の讀書觀である。