吉田三傑「村井保固傳」を読む 16

豊さんとの初対面
汽車の長旅に退屈する。慣れないパン食に腹は減るや何やで、デンバーを過ぎシカゴを経て紐育に着いたのは日本を立ってから1か月目の10月2日であった。
森村組の店は第6街コートランドにあり駅から相当離れている。同伴者と別れて一人ぽつんと駅前に出た。背は低く日本仕立ての服で茫然と立っている姿は赤毛布丸出し。
途方に暮れていると1台の馬車が「オーライ」といって店まで1弗で乗せてくれた。
豊さんとの初対面はお互いに印象のいいものではなかった。森村豊は見るからに風采の上がらぬ田舎者丸出しの村井に失望、村井は店がさぞ広壮な建物と思いきや25尺に50尺と貧弱なもので、互いに失望のしあいだった。更に村井は英語も簿記も得意ではない、豊は(兄貴も兄貴だ、選りによって飛んだ代物をよこしたもんだ)と頗る不満で素振りにそれと知られる。村井は(立派な商売人であるが人間としての器は兄と大分違う、将としての風格、規模に於いて兄貴の足元にも寄れない)と感じていたが新参者が役に立たぬものは当然と(今に見ろ、この店を大きくしてやるぞ!)と抱負だけは凄まじい。
だが、何分困るのは英語であった。客に値段を聞かれツエルヴという代わりにテン、アンド、ツーというブロークンイングリッシュだったが客にはこれがうけた。
村井は熱心さでは比類のものを持っており、クリスマス商戦で売り上げ1番の成績を納め豊さんも追々見直してくるのであった。
豊さんや村井の泊まっている下宿は第9街で、主婦のダットレー夫人は日本人を毛嫌いしないで、紐育領事の藤井三郎、新井領一郎らが泊まっていた。このダットレー夫人は眼識があり、豊さんに向かって「お前の店に勤めて居るあの『Big eye fellow』大目玉の男はただ者ではない将来大いに為す代物ですよ」と誉めた。
紐育では毎年夏期になると富豪らは避暑地に出掛ける。紐育の夏は商売閑散で森村の店も避暑地に出張して夏店を開く。十余年米国に居って商売上手な宮本はサラトガヒルに行った。村井も豊さんに(自分も夏店をやってみたい)と、申し出た。賛同を得てロングアイランドのニューポートへ一人の白人小僧を伴って出掛けた。ここは富豪の別荘地で広壮な邸宅が多く、紳士淑女が2頭の馬車でやってくる。彼らは村井の店で珍しい物があれば値段にかまわず、名刺一枚置いてサッサと持って帰る具合で、売れさえすれば面白いほど儲かる。
かくて3か月の売上げは古参の宮本を凌ぐ成績で豊さんの覚え目出度く、今では二なき相談相手は村井を置いて外になくなって来た。


明治26年シカゴ万国博覧会当時、ダットレー夫人宅の後庭にて

前右)大倉孫兵衛 前中)森村明六 前左)永井儀三郎
後右)法華津孝治 後左)森村 豊