吉田三傑「村井保固傳」を読む 26

白生地と強生地完成の苦心 (1)

村井は紐育で懇意の米人に「東洋風の畫付けでは見込みがない、西洋で売るのだから西洋風の畫付けをやってはどうか。こういう西洋式のスミレ模様などは出来ないか」といわれ見本をくれた。23丁目の大店経営者ヒギンサイダーは「君の店も発展している様だが、更に発展するにはファンシーグッズでは商売の先が知れている。実用向きの飲食器ディナーセットにしなければ多大の利益を揚げることが出来ない」といわれ日本に通信した。
本の森村大倉は双手を挙げての賛成である。方針は決定したものの実行には非常な困難が待っていた。今までの生地では実用的陶磁器に適しない。雪の様に純白でなければならない。名古屋では幾度試みてもうまく行かない、8寸徑の大皿を造ると中央にたるみが出来て到底西洋の足元にも近寄れない。火加減、冷熱度の高低か試作を続けるが要領を得ない。日本陶器会社の幹部が知恵を絞っても妙案がない。村井が帰朝する度に飛鳥井技師長は次回の帰朝までに屹度成功してお目にかけると堅く約束するが、その次もまたその次の帰朝にも相変わらず暗中模索の域を出ていない。会社の決算は来る期も来る期も赤字の連続で、世間では森村の工場で煙突から上る煙は石炭じゃない、あれは紙幣の煙だと専らの評判である。
首脳陣の大倉老が、骨を削り肉を斬る惨憺の態は人をして傷心に堪えざらしめる。
一度森村が名古屋に来た際、大倉が毅然として白色生地の成績を語り、製品を御覧に入れると、森村は「まだ純白ではない」という。「これほど純白なものを、そういう貴下は色眼鏡で見られるのだ」とやり返す。「色眼鏡とは怪しからん。この年まで色眼鏡で物を見るなどと云われたことがない」「イヤ色眼鏡です」と売り言葉に買い言葉で「最早頼みません」「宜しい、頼まれません、私は止めます」で物別れとなった。実際、贔屓目で見れば痘痕も靨に見える。何れも事業本意から出た一時の興奮に過ぎない。村井の執り成しにより百春楼の仲直り宴で、さしもの色眼鏡騒ぎも綺麗に曇りが取れた。
数日後に東京の森村から和歌が来た。
   思うこといふはいはぬに増す鏡
          おのが心を君にうつして
   世の中は喜怒哀楽の蔭ぼうし
          眞如の月に寫してや見ん
大倉の返歌がある。
   思ふことかんでふくめていふてほし
          深き心はうけきれぬゆゑ
   月見れば心の底もすみわたり
          喜怒哀楽のかげもとどめず
日本陶器会社が出来て製造方向に新しいスタートを切って以来、あらゆる新設備と新機構を要する経費が莫大で、未知の新方面で製作の技術には苦戦と苦闘を重ねる費用も少々ではない。これ等の総てを賄って窮乏なからしめる一縷の生命線は紐育の店を措いて他にない。茲に村井は戦い且つ儲けて内外両面の戦線に立つ苦心と骨折りは容易ではない。後年森村組が創業50年未だかつて一回も赤字の決算を知らぬと云う輝やかしいレコードを作った裏面に、村井と紐育の店の存在が與って最も力のあったことが申すまでもない。