吉田三傑「村井保固傳」を読む 21

結婚
村井下宿先のダットレー夫人はその頃の紐育には珍しい親日家であった。高橋新吉、藤井三郎など紐育駐在の日本領事を勤めた一流どころを始め、新井領一郎、森村豊、村井など選りすぐった日本人が納まり、他にも米国人の勤め人や学生連も泊まって相当繁盛していた。その家にダットレー夫人の妹で妙齢のキャロライン嬢がお手伝いとして居った。
キャロライン嬢の父はニューイングランド地方に永く牧師を勤めて居り、宗教に関する庭訓は申すまでもなく水準以上の素養を備えていた。
村井はこの家に来てキャロライン嬢とも親しくなり何時しか恋愛の芽生えを覚え、遂に公然のプロポーザルを経て約婚の間柄になった。
村井はキャロライン嬢に二つの条件を提案した。
第1、自分は此の分で行くと将来金持ちになれる気がする、もし富豪になったら、私に独占することなく、公共の為に散じ社会国家の進運に貢献したい。
第2、万一反対に失敗して貧乏した時、お互いにドン底で苦労せねばならぬ。
以上二つの場合に御身は何れも異存なく偕老の契りを続けて行かれるか。という質問にキャロライン嬢は快く承諾の意を表して、茲に日米一対の国際結婚が成立した。
時に村井は33歳、キャロラインは32歳だった。その頃村井と相前後して後の法農学博士新渡戸稲造フィラデルフィアの米人令嬢と婚約あり、何れも在留邦人間に羨望の話題を賑わした。
夫人は村井の服装は勿論身の廻りのことなど慈母の嬰児をいたわる如く一切の面倒を見た。その外森村組の店員、在留日本人でも夫人の周到な世話と温情に衷心敬慕の意を寄せるのである。三島彌太郎、松方幸次郎など日本人の奥さんの所に行くより却って村井邸に出入りして心おきない歓迎を受け、at homeの享楽に浸るの常だった。
斯くして村井は結婚する。店の方は卸売りの180度の転換以来、問題の第1年の成績が甚だ良好であったから村井の面目も立ち、愈々一路邁進の方針の下に、豊さんと村井は交代で帰朝することとし、翌年は豊さんが帰朝し18年には村井が帰り、着々順調な進展を見ることになった。爾来神戸に支店を設けて広瀬実栄が支店長となり、東京は本店を木挽町に新築し、更に横浜、京都、名古屋に出張所を置き、田中孝三郎、法華津孝治をそれぞれ主任として派遣するなど、森村組第1期の発展は凄まじいものであった。


(結婚約10年後の村井保固とキャロライン夫人)