吉田三傑「村井保固傳」を読む 18

豊さんの人格

村井の間口が図抜けて広いのと反対に豊さんはまた奥行きが至って深い。
兄森村市左衛門が服一着の事で、店員の粗忽をお詫びする為大坂に往き、人力車で和歌山迄お得意さんに陳謝したという商人美談と似通った例を豊さんは紐育で作った。
米人店員が間違えて1本の花瓶を一対の倍の値段で売った事があり、それが後日分かり豊さんは其の店員に訂正の方法を懇々と教え講じた。それは同業者に云い伝えられ、日本の商人道に光りを添えた。
ある日、横浜の大棚茂木桃井店の茂木喜三郎が書生風の粗末な扮装で紐育の店に来て、5弗を差し出して「商売をしたいから是だけの品物を売ってください」という。店にいた法華津孝治が「君、そればかしの金でイクラの儲けもなるまい、それで飯でも食い給え」と冗談で言ったが、Job Lotの破損品から目ぼしい品を持ち帰った。数日経って今度は今成という男と来て夏場に店を出したいとの話。法華津は「君、やるならその今成という男を質に入れて品物を持って行くが善かろう」と冷やかす。その後店に来て「私は他の店より1時間前に店を開ける、すると早朝散歩に出た米人が買ってくれる。晩は他より1時間遅れて閉める。勤め人が帰宅の途中に立ち寄って買う、これで飯代、弁当代が取れる」という。たまたま豊さんがその話を聞いて「今度は店を開ける、すると早朝散歩に出た米人が買ってくれる。晩は他より1時間遅れて閉める。勤め人が帰宅の途中に立ち寄って買う、これで飯代、弁当代が取れる」という。たまたま豊さんがその話を聞いて刻苦精励に感じ「今度は百弗でも二百弗でも構わぬから貸して思い切りやらせてみよう」と店員に言い渡した。
また、新井領一郎が横浜同伸社を辞めて失意の中、豊さんは新井の人格と手腕に傾注して居った上に、日本の生糸貿易界から一勇将を失うことを慨し兄市左衛門に新井後援の事を斡旋した。結果、横浜生糸会社が設立され、森村、村井、新井が大株主となり後に業界一の覇を唱えることになった。これは豊さんが口を利いたことが元になっていた。
更に森村と豊さんが福澤先生に話し、先生は牛場卓蔵に令嬢鶴子さんと新井の結婚の橋渡しを申し込んだ、森村兄弟は神戸に行って月下氷人の役を務めた。
こういう風格の豊さんは兄の眼にも高く評価されて居ったとみえ、ある時「森村組が米国で厚い同情を豪つて居るのも全く豊さんの賜である。彼は私の弟であるが精神においては私の兄の思うて居る」というのである。
村井自身も最初の間は、豊さんと意見を異にしたり不平を感じた事があると、ジッと虫を殺して辛抱しつつ、内々メモ代わりに誌て置いた。然る後になって手帳を見ると「ははー成程」と豊さんのいわれた方に理分の多い事を発見しあの時黙って忍んだ自分を喜んだと屡々人に語ったものである。
この様に兄でも村井でも兜を脱ぐ人格であったから店員にも親身も及ばぬ情愛をかけていた。現にある日本人で永年紐育の店に勤めた後、都合遭って身を引いた人が、豊さん没後40年の今日、未だに毎月命日には雨が降っても風が吹いても、青山の御墓に回向して昔の情誼に奉謝の意を表して居る。
一度、村井の帰朝して居る時の事、弟思いの森村は霊南坂に地所の売物があるを幸い、村井を誘いて共々見分に赴き、豊さんの為に買入れたのが今の霊南坂邸である。


(集ひの思出・ニューヨークにて/村井保固傳より引用)
大倉孫兵衛(右)森村明六(中)森村 豊(左)