吉田三傑「村井保固傳」を読む 22

第二の帰朝

明治18年、2度目の帰朝は新婚旅行であり、故郷へ錦を飾るものだった。粗末な日本家屋でキャロライン夫人と日本流の起居をともにした。村井は布団から夫人の足が露出するにも不平一つ云わない本人の迷惑を察し、冷や汗をかいたと後年の自白である。
親族、学友、竹馬の誰れ彼れが松月旅館の大広間に集まり大歓迎会を開いた。皆の心からの祝福に村井は(漢高の大風吟)も思い出されて得意は正に絶頂に達した。
郷里における村井の評判は雷の如く轟き、吉田の友人や後進を刺激した。何れも大志を抱いて雄飛の天地を開拓しようと都門に向かって出掛けるのである。
中にも法華津孝治は明治18年村井の紹介で大倉孫兵衛に逢い、直ちに森村組に入り爾来累進して遂に幹部の一人となった。
喜佐方の山下亀三郎も村井に就職方を相談すると、村井は山下と共に富士製紙会社の村田一郎副社長を訪れた。日給17銭で善ければ採用するという、やむを得ない其れではお願いしますと外に出た。納まらないのは山下である「村井君、日給17銭とはヒドイじゃないか、左様な口なら君に頼まなくても何処にでもある」と不平満々。その時村井は「君は金銀、銅鉄に各々価値があるのを知っているだろう、君が鉛であれば一度金で入社しても早晩鉛の待遇をされる日が来る、その反対に君が金ならば鉛で入っても何時かは金の価値を認めてくれる時節が到来するじゃないか」流石に山下は「いかにもそうだ」と納得した。
こう言うスタートで因縁が結ばれ、村井の死に至るまで法華津、山下の二人は、心友となり後継者となり、時には悪友ともなって50余年の長日月を爾汝の間柄で終始した。
一度、村井が吉田に帰っておる際、山下も来合せ、村井に次の一首を贈ってよこした。
「あすはお立ちかお名残り惜しや 豊後水道涸れりや善い」
村井の返しに、
「豊後水道涸らせておくれ わたしや吉田をはなりやせぬ」
  (これは5月22日のブログと重複するが敢えて記した)

昔、若いころ村井と山下が田舎の宿屋に泊まった事がある。むさくるしい所で、便所は近く臭気が鼻を突く、夜具はひどく汚れている。山下は不快で深夜になっても寝れない。一方の村井は横になるが最後、さも心持よく大イビキである。山下は「俺はとても村井には叶わない」と恐れ入った。
吉田の生んだ大先輩は何れ劣らず故郷に無限の執着を持った。彼らは率先して病院に、中学校に、女学校から幼稚園と、道路、橋梁の土木事業に至るまで絶えず多額の寄付をした。

(浦上翁が村井に送った漫画)