がいな男 (43) 船舶運営会

 昭和5年、「がいな男」に背いて山下汽船を出て行った浜田喜佐雄は、大同海運の近海課長として営業の第一線で活躍した。喜佐雄は、華中、華北との物資輸送の強化を主な目的とする「東亜輪送組合」の幹事で奔走していたが、昭和15年1月より逓信大臣の命で事務官、林坦と中・北支へ出張、物資船舶輪送状況を調査し軍の大陸作戦の遂行に貢献した。
 太平洋戦争突入に伴って海運管理令に基づく「船舶運営会」が設置されると、運航実務者の第一線に選ばれて参事に就任、港務部長、燃料部長の激職を歴任、また海運総局嘱託に任ぜられ、大本営海運総監部にも出仕して、軍と緊密なる連携の下、非常時下の海上物資輪送の確保と全国港湾運営の指導督励に東奔西走した。
 喜佐雄は船舶運営会で必死に闘ったが、戦局は厳しい事態となっていた。米軍のガダルカナル島上陸から船舶の争奪戦が激しくなってきた。戦争は物動が戦争遂行のカギを握る。当初、軍部は戦略物資等の輸送に約300万総トンの船腹量で足りると計画していた。開戦当時、日本の船腹量は約2700隻、630万総トンであった。それらの船を軍の徴用として陸軍がA船として520隻、海軍B船480隻、その他民間使用と官庁使用をC船として1530隻のシェアとなっていた。しかし、戦局の不利が進むにつれ船舶の消耗が激しくなり、陸海軍の統制が緩み船舶運営会の運航するC船の分捕り合戦の様相を呈してきた。
 政府は航空機と船舶を主体に大量生産体制に入った。海軍が管轄する造船所は、戦時標準型船(戦標船)を建造したが、船舶の消耗は激しく建造が間に合わなくなってきた。性能を犠牲にした粗製濫造の粗悪船が現れたが、急場しのぎの88艦隊(880総トン)は敵潜水艦の餌食になった。
 ブロガーは2016年『トランパー』を出版した。がいな男と喜佐雄の海運人一代記だったが、この本を書く動機があった。それは、喜佐雄が同郷の山下亀三郎を頼って山下汽船に入り、丁稚から鍛えてもらった大恩人に背き、先輩・田中正之輔の率いる大同海運へ行ったのは何故だろうと、それを究明する為だった。
 後年、喜佐雄は大同海運設立のことには触れなかったが「所詮は歴史の流れの中の一コマであった」としみじみ語った。

 

内航海運新聞 2022/12/5