がいな男 (44)  『沈みつ浮きつ』刊行

 昭和18年、がいな男は『沈みつ浮きつ』という口授本を発行した。〝天〟と〝地〟の二冊を箱に収めている。本書に使用した紙は、鐘ヶ淵紡績で漉かれた「絹の紙」で特殊なものだった。地の巻に(文豪蘇峰先生と俗人山下)と題し記されている。

 がいな男は徳富蘇峰明治32年頃、国民新聞社で初めて会った。親戚の古谷久綱は同志社先輩の蘇峰が主宰する国民新聞社に入社したが、その後、蘇峰の推挙で伊藤博文総理大臣の秘書官になった。その頃、がいな男は、息子太郎を明間(あかんま)村にある古谷の実家に預けることになり、わざわざ古谷の母親が太郎を連れに上京した。その折3人で蘇峰を訪れたのである。応接室には伊藤公、山縣公の額と署名入りの写真が飾ってあったそうだ。がいな男は蘇峰と知己になり運が開けた。

 明治36年日露の風雲が迫ってきた時、喜佐方丸を御用船にとって貰うように伝手を頼っていたが、蘇峰の紹介で海軍省の斎藤次官に会ってその旨をお願いした。その年の12月に御用船の命令が下った。がいな男は飛び上がって喜んだ。爾来、40年近く懇意を重ね、蘇峰の娘婿は山下汽船の社員になっている。がいな男は蘇峰を「一水の酒も飲まれず、非常な健啖家で、非常な健康体で、何時も隆々たる童顔の持ち主であるということは羨ましい」と述べている。
 徳富蘇峰の筆は実に難解である。『沈みつ浮きつ』序文を肉筆で書いているが、各テーマごとの寸評は読めたものではない。ある書家に見てもらったが解読できなかった。明治の人は合わせ字(合字)という文字を使ったりしていたようである。

内航海運新聞 2022/12/12

蘇峰の字(亀三郎の原稿に書き込んだ)