がいな男 (41)太平洋戦争 (42)宴会名人

 がいな男は昭和16年、会社の幹部社員らにこう話をしている。
(世界は混沌としてきたが我々はどう考えたらよいか。いろいろ息詰まることもあろうが、取り越し苦労をしてはいけない。海運、石炭、造船、築港など国家の基礎工事たらんとして仕事に励んでいる。農夫が田畑を耕し、職工がその職に働くが如く、国家の事業のある部面に働いて居るものであるから、政治家として国を憂える人などと思想行動を共にすることは絶対禁物で、種々なる取り越し苦労を避けて、運命は天に任せて、最善の努力をしよう)この年の、二十九、三十期決算は、千七百三十三万円の利益を揚げ、山下汽船の黄金期を現出した。

 昭和16年11月、がいな男が手塩にかけた「日本丸」など3隻のタンカーは日本海軍の艦隊の補給に随行した。その後、日本の海運界は海上輸送の確保と増強のため、国の要請に応え総力を挙げて協力することになる。

 船成金として名をはせた内田信也は『風雪五十年』という回顧録を「実業の日本社」から発行したが、盟友山下亀三郎について触れている。
 ……山下亀三郎は、例の強気一方で押し通し、これまた一時は大損害を受けたのであるが、日華事変、第二次大戦勃発に至って捲土重来、漸く昔日の勢いを盛り返したことは人も知る如くである。……などと種々のエピソードを語っている。

 がいな男は、昭和17年一月、銀座木挽町の料亭「金田中」に財界のトップを招いて「河豚会」を開催した。この大宴会が、社長としての最後の晴れ舞台となった。この年三月、山下汽船の社長を辞任し会長となり、息子の太郎が社長、三郎が取締役に就任した。
 だが太平洋戦争勃発後の〝勝った、勝った〟の大本営の絶叫放送も、がいな男の怪気炎も次第に戦争の喧騒にかき消されて行った。

 

内航海運新聞 2022/11/21

内航海運新聞 2022/11/28