「トランパー」出版まであと8日(喜佐雄、大同海運移籍を語る)

昭和四十五年(一九七〇)三月、日本船主協会が、五十周年(大正九年創立)に当たり「長老を囲んで」と題し、座談会を開催した
(浜田喜佐雄氏にお聞きしたいこと)
――山下汽船における待遇、船成金時代とその後の船会社社員の内外の生活ぶり
……第一次欧州大戦では船成金が簇生した、その豪勢振りは所謂鼻息の凄かったことが、今思うと夢物語でその真実性すら疑われる。重役、社員でもエピソードは昼夜を分かたず各方面に創作したが、家庭生活はそれほどでもなかった。三十歳代は少なく二十歳代ばかりで五十か月〜百か月の賞与を貰っても貯蓄する者はなく、反して一六銀行通いする者が有った。
社内の風潮は、金を貯めるのは碌なものではない、大物になれぬ、けち臭い奴は語るに足らず同席も汚らしいなど村八分になりかねない調子であった。また社員で株をやることはご禁制、そんなことで神経を費消するより身を入れて働けということ。
――山下亀三郎氏、その他山下汽船幹部の風格と感銘を受けたこと等
……社長から使丁まで一丸となって働いた。問答無用で先ずは働け、全力投球で仕事に情熱を傾けた。幹部は個性、長所、技、特徴を遺憾なく発揮した。それが社風となって努力、向上、伸展、開発に繋がった。
――大同海運設立の経緯
……設立の動機、経緯については遠慮させていただくが、所詮は歴史の流れの中の一コマであった。ただ大同設立時の規約で利益金の配分は参考まで申し上げると……
一.太洋海運のオペレーションを一切大同海運が引き受けたので、同社に三分の一。
設立時資本金五十万円の出資者に対し三分の一。
三.従業員に三分の一。
四.山下のおやじさんが必要をいう時に役立てるために積立て十分の一。
(註)四項を考えなければならなかったほど、当時の業界は不況に沈滞していた。幸い山下汽船も回復、隆々たる状態になられたのでそれは不要となり、財団法人海洋育英社を設立、専ら海員志望者の奨学資金に振り向けた。
 
……この座談会のあった昭和四十五年は、亀三郎没二十六年である。喜佐雄が大同海運設立について語るには長い歳月が必要であった。
筆者は、喜佐雄が大山下から離れたことが、最大の謎だった。インテリ田中正之輔に傾注していったのか?分からない。
小僧っこの筆者は、喜佐雄から亀三郎のこと大同海運のことは一遍も聞くことはなかった。
一句
列伝の男心に咲く椿


(吉田町白浦の浜田喜佐雄像)