西国の伊達騒動 22

吉田藩紙騒動 (15) (最終回) 六代伊達村芳お国入り

 寛政五年の山奥組を発端とした百姓一揆は、宇和島藩の八幡河原に集結するという騒ぎに発展した。家老安藤義太夫は、一揆を鎮めるため河原で自刃した。やがて農民らは歎願書を出し、概ね願いが叶い百姓衆は嬉々として帰村した。

 在府中の幼君伊達村芳は、安藤義太夫忠死の報に涙したという。

 吉田藩は、越訴は天下の御法度と、一揆の首謀者らを逮捕して厳罰に処した。

 村芳が江戸上屋敷で生まれたのは安永七年、父村賢の病が重くなった寛政二年に、六代目の藩主となった。弱冠十三歳の若殿だった。

 吉田藩の騒動も鎮まった寛政六年、十六歳の村芳は、江戸詰め家老の加藤文左衛門らを従え四月二十七日江戸を発ち、六月三日に吉田港に到着した。約四十日の長旅は、若殿の見聞を広めた。

 村芳は、御座船から降り、初めてわが伊予吉田藩の土を踏んだ時に(ここが夢にまで見た吉田であるか)と感動した。

 初めてお国入りした若殿は、我が領地を巡見する村の先々で、領民から万歳、万歳で迎えられた。警固の作之進は、その光景をみて「下々はみんな幼君の仁風に服し万歳を唱え申した」と語っている。

 村芳は、諸事に倹約をして、日夜、聖賢の道を学んだ。論語など四書五経を読んで自らを磨き高めた。

 また我が藩には藩校がないことを知り、この年の十一月、横堀番所の先、桜丁に「時観堂」を創設し、儒者の森崇を教授として士分の子弟に、漢籍などを学ばせた。

午前中は漢籍国学・習字を学習し、夕方は槍術場、撃剣場で鍛錬が行われ、文武両道の精神を叩きこんだ。

 明けて寛政七年、藩政のノウハウを修得した村芳は、参勤で江戸に向かった。

 四月七日、江戸に到着した村芳は、直ぐ徳川家斉に参勤御礼のため参上、公方様と若君に太刀、紗綾、馬代銀を献上した。その折、国元へ初入部のこと、吉田騒動の顛末を申し上げ深謝した。

 家斉は、村芳から家老・安藤義太夫一揆を収めるため切腹したと聞き、

「今どきそのような忠義なもののふが居るのだな」と呟いた。

 在府中に村芳は、下総関宿藩主・久世広明の娘、満喜子と婚姻した。

八月九日、関宿藩上屋敷がある江戸城近くの大名小路から、南八十堀まで入輿の長い行列が続いた。持参金は五百両で、共に十七歳の若きカップルだった。

 この夫婦は教養豊かで、和歌などを詠い文芸に秀でていた。

 村芳は、江戸詰めの藩医国学者でもある本間游淸から、歌道の指南を受けた。

 ある日、村芳は巡見で国境の蕨生村(松野町)を訪れた。名所の(雨か瀧)を見て、

  高知山ふもとは曇り空は晴れふらぬ日も降る雨か瀧つせ

と短冊にすらすらと認めた。当地の庄屋伊藤某は、若殿からこれを賜り家の宝とした。

 奥方の満喜子も歌道に熱心だった。三間郷・内深田村の大本神社で開かれた観桜の宴で詠んだ一首がある。

  老いぬれど変わらぬものは年毎に花見て遊ぶ心なりけり

 村芳が、文政三年、四十二歳で没した後も、満喜子は侍女の横山三千子(のちの桂子)と共に本間游淸から和歌を学んだ。作歌の数は五千首にもおよび、七十賀の記念に、游清が歌を選んで歌集『袖の香』を出版した。その一首

  水の上にしなひしなはぬ影みえて底まで匂ふ山吹の花

 また、侍女の三千子は、游清から文学の薫陶を受けた。

  あかぬかな月澄む夜半に散る紅葉桂の花のここちのみして

という題詠歌「月前紅葉」が、仁孝天皇の目にとまり「桂子」の名を賜り、のちに女官となった。

 本間游淸は、吉田の豪商、両法華津屋とも交流があった。

 叶高月屋の高月長徳は、吉田騒動の時の当主だったが、和歌、漢詩をたしなむ文化人だった。

 三引高月屋の九代目高月甚十郎は、雅号を「虹器」という。和歌、俳諧、書画、生花に造詣が深く、生花の吉田千家を起した。文化九年の還暦記念として『虹器年賀集』を出版した。

 家老安藤義太夫に重用された町年寄の岩城覚兵衛は、安藤に町方の後事を託された。その孫、七代目の岩城覚兵衛は、魚棚の岩城屋を大きくしたが、五十四歳で、引退し俳句の道に進んだ。

俳号を蟾居(せんきょ)といい、芭蕉に心酔し、「俳諧は芸にあらず道なり」と句作に励んだ。句文集『波留冨久路(はるぶくろ)』を、六十歳から書き始め七十六歳で没するまで全五巻を刊行した。

ここに納められた句数は、九千八百九十四句に達する。その中に、

  しる人の先に来て居る花見哉

という最晩年の句があり、光明山長福寺の墓所にこの句碑がある。

 ***

 安藤義太夫の墓は、菩提寺海蔵寺」にある。

 義太夫は卯の年卯の月卯の日(二月十四日)卯の刻に誕生し、二月十四日に逝去した。伝説では、六十一年目に当る嘉永六年二月十四日、発光があったという。

 豊後の国、保土が島(佐伯市保戸島のことか)の漁師が五神島(日振島近くの御五神島のことか)で汐待していると夢枕に神人が現れ、「われは吉田の安藤義太夫である。つむじ風が来るから直ぐに避難せよ」といわれ目が覚めた。

 半信半疑の漁師は、大急ぎで錨を揚げ近くの港に避難した。すると空は一転かき曇り海は荒れ狂った。白日夢のようであったが、命拾いをした漁師は、吉田港にあがり海蔵寺で、義太夫の墓を探しあて、自分の髪を切って奉納した。

 この霊験が、西国一円に伝わり、その後、海上安全、五穀豊穣、商売繁盛を祈願する参詣者が後を絶たず、多くの露店が出て門前市を成した。

 翌、嘉永七年、海蔵寺山内に名工二宮長六の手で廟所が造営された。土佐、九州など遠来の参拝客が押し寄せ、町人町にある二百軒ほどの旅籠が潤った。

 明治六年、信者有志は桜丁の安藤邸跡に継明神社を建立、後に安藤神社と改称された。この神殿も大工町の二宮長六が建立した。

 昭和六年、吉田新報が、

……四月十四日、安藤神社祭礼。一時神輿出、午後四時御幸所祭。神輿渡り各種練り物等午後一時より繰り出し好天気にて人出約一万人を以て埋められ、魚二下の丁辻では練りと牛鬼と群衆との三つ巴入り乱れの大喧嘩もあって喚声しきりに上がり慇懃を極め、夜に入っても群衆は盛り場より退散せず……

と春祭りの賑わいを報じている。

 中見役・鈴木作之進の墓は、最上山一乗寺にある。この寺は、藩祖宗純が建立、御内室於松の墓がある。作之進の墓は小高い丘にあり、眼下には吉田藩を救った安藤義太夫と郷六惣左衛門の菩提を弔う海蔵寺が見える。

 呑兵衛作之進は、「宮長」のある町人町を眺め、領民の弥栄(いやさか)を願いながらここに眠っている。

 

(エピローグ)

 一揆の首謀者・武左衛門の拠点である元日吉村の初代村長・井谷正命は、

昭和二年十一月、「庫外禁止録」を元吉田町長の清家吉次郎から借り受けて写し取った。この古文書は、作之進が寛政七年春、閑暇に任せて記述したもので、

「これは物語として残すのではなく、庫中に納めて他へ漏らすことの無いようにするものである」と記されている。

 平成七年、日吉村長・山本光男氏は、武左衛門の二百回忌にあたり、研究者の手により「庫外禁止録」(井谷本)を翻刻し発刊した。

 その中で、井谷正命は、村に伝わる話として、

(武左衛門は一揆の首唱者にして所謂頭取と認められ、藩吏の憎悪甚だしく逮捕の夜、清水村筒井坂にて斬首せられ、直ちに上大野村堀切坂に梟首せられたりと云う説真なりせば、目付所へ渡されたりと云うは、誤りなるべし。筒井坂の斬首せられたる跡には郷民等が、それとなく建立したる一字一石塔〈広見町下大野筒井坂にある明治十二年銘の塔〉が現存し在るなり)と記述している。

 

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    安藤神社            海蔵寺 (2015.5.6 ブロガー撮影)