西国の伊達騒動 17

吉田藩紙騒動 (10) 一揆勢が宇和島

 宮野下村に集結した一揆勢のリーダーは、吉田郷や浦方へ誘い出しのため仲間を十人ほど走らせた。

 吉田藩お膝元の立間村、喜佐方村、立間尻や浦方の俵津浦(現明浜町)、白浦、南君、浅川、鶴間などの百姓衆や漁民らが、(それー行くぞ―)と家を飛び出した。

武左衛門らが企てた百姓一揆の申し次ぎは、吉田藩の津々浦々まで伝わっていた。

 奉行の横田茂右衛門は、各村の住職たちを呼び、百姓どもの取り鎮めを頼んだ。三間郷では宮野下の白業寺など六つの寺や、俵津浦の地蔵院の和尚が動員された。

和尚たちは、多くの百姓衆が蜂起したことに驚き狼狽した。

しかし檀家の百姓衆を止めないと、村に罪人が出て大変なことになる。

 和尚たちは、地元の百姓衆に、

(願書を出せば藩に聞き届けてもらうように図るのでここで留まってくれ)というと、

 百姓衆は(紙方新御法は取消し、紙役所を廃止する。一揆の頭取を詮索しない)この二点が通れば、ここに留まるというので、寺側はこの旨を奉行の横田に伝えた。

 横田は、紙役所のことは一存では決められないと、村目付の二関古吉を吉田表に向かわせた。陣屋に着いた二関は、目付・郡奉行に百姓共の願いは、新御法の廃止であると説明した。直ぐに目付久徳半左エ門と郡奉行小嶋源太夫は、重鎮に報告し重役会議が開かれた。

 末席家老の安藤義太夫継明は、この騒動に困惑していた。安藤は宇和島藩主伊達村候(むらとき)の推挙で家老の列に加わった偉才だった。

去る一月の紙すき百姓衆の願書を評議した折、安藤は重税と紙新法に困窮する農民の要求を無視できないと藩政改革を主張した。一方で中老・郷六恵左衛門ら多くの重役は万事従来通りということで、百姓衆の願いは叶わなかった。

 だが早馬で次々と一揆勃発の報せが入ると、(これは一大事だ!)と紙役所の廃止云々はいって居れなくなった。安藤は紙方新御法を取りやめ、直ぐに目付、奉行を宮野下に差し向けるように家老たちへ建言した。

しかし百姓の強訴で新御法を廃止すると藩の威厳を損なう等、中々結論が出なかった。

 この様子を御坊主から聞いた郡奉行の小嶋源太夫は、

(そもそも紙方新御法の発令は郡奉行に何も知らされていなかった。横田茂右衛門が取り鎮めることが出来ないのに、巳どもが今更出張っていっても仕方がない)と席を立って帰って行った。安藤は、御坊主に直ぐ小嶋を呼び戻すよう指示をした。

「児島殿、ただいま新御法の取りやめが決まった。すべてを貴殿に任すので三間に行ってくれ」と安藤は申し付けた。

 早速、久徳半左エ門と小嶋源太夫は、馬で宮野下に行き紙方新御法の廃止を和尚らに伝えた。十一日の夜、この話を聞いた各寺の和尚たちは、早く百姓衆に、(願いがかなった)と伝えねばならない。

しかし百姓衆は、夜分に光満(現宇和島市)方面に出たという報せがあった。近永で留まっている連中にも伝える必要があるが、結局、藩の回答は一揆勢に届かなかった。

 作之進は、宮野下に戻って顔見知りの百姓衆に、

「徒党を組んでの狼藉は大罪だぞ」と説得したが、百姓共は、啞(おし)のように黙って一言もいわず見向きもしなかった。さらに近寄れば、田畑の中へ避けて通るというありさまだった。

 作之進は一揆の主謀者とされている武左衛門を知らない。一揆を企んだ者が、山奥の百姓であれば紙仕法が緩和されたばかりである。あえて騒動を起こすことはないのではと、作之進は思った。

(では山奥の主謀者を此処まで駆り立てているのは何故であろうか)

 作之進は一揆の狙いは何であるか推し量った。

=山奥組のリーダーは、吉田藩すべての百姓衆を一揆に動員するために、申し次ぎを各村に伝え行動を開始した。穀倉地帯・三間郷の百姓衆や、吉田近郊の村々、また飛び地となっている浦方などの同志は一斉に蜂起した。

これは相当前から準備して、八三カ村の総意に基づいて一揆を起こしたのであろう。

すると寺側が聞いた願い事は、山奥組の不満のみで、吉田藩の目付・奉行が紙役所を廃止すると言っても、これでは一揆が収まるわけはない。もっと年貢のことなど深刻な要求があるのではないか?=

 百姓衆は、昨夜から三間郷の宮野下で決起集会を開いていた。吉田や浦方の連中は、七曲峠や十本松峠を越え、村名を書いたむしろ旗を掲げて続々と集まってきた。

連中は酒の勢いもあって、日頃の鬱憤を晴らすためか、やりたい放題となり収拾がつかなくなった。

「吉田役人はうそつきじゃ、灯燈を見よ、あの通りじゃ宇和島へ行って根を抜け狸坊主にばかされな」と大声で囃し立てた。

 三間郷のリーダー国遠村の幾之助と沢松村の藤六は、山奥、川筋の同志と宮野下で合流する段取りだったが、二千人以上集まった群衆をここに留めるのは難しいと思った。

このうえは山奥組の連中を待って居れない、このまま宇和島になだれ込むしかない。

リーダーの幾之助は、「わしらは今から窓峠(まどんとう)を越えて宇和島に向かう!」と群衆に呼びかけた。

 如月の寒い雨が降る中、宮野下に終結した一揆勢は、三島神社一揆の願いが成就するよう祈願し、大縄などを残して、宇和島に向け出立した。とうとう吉田藩の百姓たちは、となりの宇和島藩に越訴となった。

 翌十二日明六つ過ぎ(午前六時)、吉田藩の小嶋ら二奉行は宮野下にて申し渡しをする手筈になっていたが、一揆勢はすでに宇和島に向かっていた。吉田藩発足以来、最悪の事態に役人や僧侶らはなすすべがなく呆然としていた。

 作之進はこの展開に、(やはり百姓どもの狙いは宇和島藩への直訴か、近永村で待機している別動隊もいずれ宇和島に向かうだろう)と事の重大さを改めて感じた。

 作之進は、大規模な百姓一揆に拡大する気配に、六年前の土居式部騒動のことが記憶に蘇った。

(あの時に一揆未遂の原因を突き止めるべきだった)

 三島神社宮司の土居式部は、藩の強硬な追及にも頑として口を割らなかった。

寛政年間、江戸幕府は十一代将軍・徳川家斉の治世で、吉田藩主は、六代目の伊達村芳だったが、殿様は、江戸生まれ江戸育ちの弱冠十六歳だった。

 まだお国入りをしていない藩主は、遠い伊予吉田の領地で吉田藩の存亡に係わる大騒動が起きているとは知る由もなかった。

 

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武座衛門か?