西国の伊達騒動 23(完)

 高輪 東禅寺を訪ねて

 11月5日、伊予吉田藩・歴代藩主の墓がある港区高輪の「東禅寺」を訪れた。

 コロナ感染も激減し、ブログ「西国の伊達騒動」の締めに久しぶり東京へ出かけた。昨年開業した新駅「高輪ゲートウェイ駅」で降り、第一京浜を渡って桂坂、洞坂をアップダウンすると東禅寺の山門に着いた。

 東禅寺は高輪3丁目にあり、臨済宗妙心寺派で江戸四箇寺の1つとして、国指定史跡になっている。江戸幕府は、安政6年、品川に近い高輪の東禅寺を英国公使館としてイギリスに提供した。ラザフォード・オールコック初代英国公使は、尊王攘夷派の水戸藩、松本藩の浪士に2回も襲撃された。

 東禅寺は宮崎の飫肥藩主伊東祐慶が赤坂に創建し、寛永13年(1636)高輪に再建された。本寺を菩提寺にしている大名は13藩にも及ぶ。昔、目の前は品川の海だった。西国の藩主は、ふる里につながる海に想いを馳せたのだろう。

 伊達家は、宇和島藩伊予吉田藩陸奥仙台藩が江戸の菩提寺としている。

 宇和島藩は藩祖・伊達秀宗墓所があり、伊予吉田藩は、2代宗保から江戸で亡くなった歴代の藩主ら(下記参照)のお墓がある。

 海運王・山下亀三郎は、高輪南町に邸宅を構え、毎朝、東禅寺辺りを散歩した。

 

f:id:oogatasen:20211105103119j:plain
f:id:oogatasen:20211105104459j:plain
東禅寺山門(2021.11.5)
f:id:oogatasen:20211105103436j:plain
f:id:oogatasen:20211105103415j:plain
東禅寺本堂と三重塔

 幕末の宇和島藩伊予吉田藩

 山下亀三郎に縁のある伊達宗城と伊達宗孝は、そもそも旗本山口家の兄弟で、幕末は勤王派、佐幕派に分かれて動乱の時代を生きた。

 旗本家の厄介者は(総領ではない)伊達家の世継ぎ問題で一国一城の主となった。

 兄の宗城は宇和島藩8代目藩主、実弟の宗孝は、伊予吉田藩8代目藩主となった。

 旗本山口氏は、清和源氏の流れをくみ、信濃国山口を領し山口と名乗った。

 1585年、山口直之の子、直友が徳川家康の家来となり、代々徳川家に仕えた。

 1704年、徳川家宣の時代、山口直安(初代)は旗本八万騎となり三千石を知行した。

 時代は下り、1789年、3代目山口直承の婿養子、直清は31歳で4代目を相続した。

彼は、宇和島藩5代目伊達村候の次男で、宗城・宗孝兄弟の祖父にあたる。

 伊達家の血を引く直清は、天明大飢饉の頃、大坂町奉行の要職にあったが、幕府から莫大な御用金を課せられた。疲弊困窮している領民に課税は出来ないと、老中に再三願い出たが聞き入れられず、ついに一命をもって窮状を訴えた。1798年没、享年39歳だった。吉田騒動の家老・安藤義太夫は、5年前(1793)八幡河原で切腹し御家を護ったが、直清は自刃して領民を救った。

 5代目直勝は、父直清が幕府に逆らったにも関わらず跡目を相続し、直信、宗城、宗孝の3兄弟を育てた。

 1825年、直勝は、長男の直信に家督を継がせた。その後、宗城、宗孝を父・直清ゆかりの伊達家へ養子に出した。ちなみに直信の次男は、弟宗孝の養子となり吉田藩9代目の宗敬という最後の藩主になる。

 いろいろと縁の深い山口家であるが、宗城、宗孝は互いに相反するところがあった。

 宗城は、文政元年(1818)江戸、牛込逢坂の旗本屋敷で生まれた。幼名は亀三郎で、母は蒔田河内守広朝の娘である。

 さて、宇和島藩の7代目藩主宗紀(6代村壽の長子、直勝の従兄)には、跡継ぎがいなかった。伊達家に血縁のある男子を模索していたところ、白羽の矢が当たったのが、山口家の次男亀三郎だった。文政十年、亀三郎は先ず伊達弾正の養子になり、知次郎と改名し、宇和島藩邸の家老屋敷に移り住んだ。

 天保5年(1834)17歳の知次郎は、義父の宗紀に連れられ将軍家斉に謁見した。

 天保6年18歳で元服、諱を宗城とし宇和島に初めてお国入りした。

 宗城一行は箱根から東海道山陽道と往き、兵庫の室津港から船に乗った。港は北前船、菱垣廻船、樽廻船など多くの船で賑わっていた。瀬戸内海をゆくと千石船が行き交い、物流の大動脈たる船を見て胸が躍った。

 やがて船は伊予国佐田岬を回って宇和海に入った。波の高い豊後水道を南に下ると日振島などの島々が見える。宇和島湾に入ると、目の前に宇和島城が鬼ケ城山脈に映えて華麗な姿を現した。宗城は「ここが宇和島十万石の我が伊達藩か」と目を輝かせた。小早船に乗換えた若殿は、多くの藩士、領民の大歓迎を受けて宇和島の地を踏んだ。

 その後、宗城は名君宗紀から帝王学を教えられ勉学に励んだ。特に西洋事情に興味を持ち世界の情勢を研究した。

 宗城は、海外の大勢を知るためには蘭学が大事と、高野長明を招き藩士を教育をした。更に、長州から招いた村田蔵六に提灯屋の嘉蔵と一緒に蒸気船の建造を命じた。

 宗城は、若いころ宗紀の紹介で、水戸斉昭から尊王思想を植え付けられていた。

 宗城は、わずか十万石の小藩なれども、薩摩藩などの大名と肩を並べ「四賢侯」と呼ばれるまでになり、混迷する幕末で政治指導力を発揮した。

 慶応2年に、2代目の英国公使ハリー・パークスが、イギリス東洋艦隊で宇和島を訪れた。宗城は、汽船サラミス号に乗ってきたパークスを義父宗紀、その子宗徳の三代で迎えた。後日、パークスの部下、アーネスト・サトウは「四国の片田舎にはもったいない優秀な大名がいる、宗城公は日本一の知恵者」と褒め称えている。

 宗城は、公武合体を唱えたが、戊辰戦争が始まると薩長に同調せず新政府参謀を辞任した。

 一方の弟・宗孝は、文政4年(1821)山口直勝の三男として生まれた。幼名を鍋之助といった。

 天保10年(1839)18歳の時に、伊予吉田藩の第7代藩主・伊達宗翰の養子となり伊織と名乗った。宗翰は、宇藩7代宗紀の実弟であるが、子宝に恵まれず跡継ぎに頭を悩ましていたが、兄と同じく旗本山口家から養子をとった。

 天保14年、伊織18歳の時に、8代藩主宗孝となり、従五位下和泉守に就任した。

 弘化2年(1845)34歳で若狭守となり日向佐土原藩島津家から嫁を迎えた。

 同年7月義父宗翰が吉田で逝去、50歳だった。宗翰は兄宗紀と同じく英邁な藩主で、文武両道を奨励し吉田藩の財政改革、産業振興に務めた。

 弘化3年5月、宗孝は吉田藩に初めてお国入りした。すでに宇和島には11年前、兄宗城がお国入りして、義父宗紀と藩政の改革に取り組んでいた。

しかし宗孝は、江戸育ちで旗本家の暮らしが長く、僻村の地に馴染めなかった。

 宗孝の家臣・甲斐順宜が著作した『落葉のはきよせ』によると、殿様は「好東厭西の性僻」と評し、江戸で評判のいい板前を御料理方に登用し、小唄や端唄を好むなど、江戸風に浸り贅沢な暮らしで藩政を疎かにしたと批判している。

 この御料理人は、石井治兵衛という四條山蔭中納言卿の流れを汲む職人で、京都で生まれ江戸に行き、先祖伝来の古實料理法を研究した。彼は幕府より仕官を求められたが、(徳川の百石より伊達の三人扶持が有難い)と、宗孝の招きに応じ御料理人頭となった。吉田陣屋街の河見の丁に住んだが、暇さえあれば小豆一桝を板の間に撒いて直魚箸でこれを拾った。当時、御上の料理は、すべて直魚箸を使い直接手で触れなかったという。維新後は宮中に奉仕して大膳職となり、料理人「石井治兵衛」の名跡は今も脈々と続いている。

 このような派手な暮らしで、在府の年に掛かった経費は、吉田在所の年の2倍となり、江戸滞在の3年間は莫大な出費となった。宗孝は吉田に帰国するのを嫌がり、進んで公儀の仕事を請け、更に虚勢をむさぼり交際を盛んにして財政を圧迫した。

 吉田陣屋では、安政の大地震で御殿の修復工事を行い、側室の住まいを新築、安政4年(1857)、名工二宮長六の手で総ヒノキ造りの大玄関を造り大広間も改築した。

 宗孝の浪費で藩の財政は困難を極め、ついに七段掛りという重税を領民に課した。

豪商、豪農には強いて献金を促し、大阪商人の鴻池などから6,000両を借金した。

 文久3年(1863)宗孝は、側室の保野(ほの)と茂(しげ)と、その子女、江戸屋敷の女中などを連れ大行列でお国入りした。その道中に多くの足軽衆が付き添い、女中共の腰添まで勤めさせられ、後日、足軽衆から指弾を受けることになった。

 これに反し実兄の宗城は、宇和島藩のため財政を整理し士民を休養させた。それゆえ吉田の有様を聞いて大いに憂い、しばしば書をもって宗孝に忠告した。

 しかし、それ以上に宗城を困らせたのは、宗孝の佐幕志向である。旗本出身ゆえに徳川家擁護の意志は固く、吉田藩は存亡の危機に晒されてゆく。

 宗孝は、日ごろ「予は大名にあらず、何時かは十万石以上の大名になる」と兄宗城に対抗心を燃やしていたが、江戸城柳之間の触頭として自ら佐幕論の首謀となり、70余藩を纏め西国の倒幕派である三大強藩に対抗しようとした。

 これを知った宗城は、家老の郷六と物頭の今橋、今村の三士を江戸へ向かわせ、大義名分をもって忠諌させた。すると宗孝は「汝らの知るところに非ず」と家臣は一蹴され帰国した。

 宗城が尊王派として活動している時、宗孝は佐幕派の立場をとり、鳥羽伏見の戦でも動かず朝廷の疑惑を招いた。吉田藩の老職たちは、空前絶後の一大事を救うには、藩主を迎護して京都に参勤するしか道はないと、60名の藩士を選んで江戸に向かわせた。

家臣の甲斐順宜も重病を押して東行に加わった。途中、東征の官軍を通過したが辛くも江戸屋敷に到着した。

 さすがの宗孝も、事ここに至っては大いに悔悟し、諸士に感謝して速やかに退身を決意した。養嗣子宗敬に家督を相続すべく願書を朝廷に奉呈することになった。

 宗孝は、慶応4年(1868)6月上京、宗城のとりなしで朝廷に陳謝し、7月23日宗敬に封を譲った。

 維新後、宗孝は老齢ながら選ばれて侍従となった。陛下の覚えは格別であったが、特に馬術が達者なので常に御陪乗を命じられた。

 山下亀三郎は自伝『沈みつ浮きつ』で、宗孝公は馬に乗りウサギ狩りなどして、庄屋の山下家に立ち寄り、母敬のお茶漬けを食べたと書いている。殿様は酒を余り飲まない、味噌漬けで飯を食うという質素なものだったらしいが、伝聞の乱行については自伝には記されていない。

 隠居した楽堂翁は、明治32年5月20日死去、享年78歳。同日付けで従三位に叙せられた。法名は、總宜院殿楽堂達孝大居士で、高輪の東禅寺に葬られた。

 余談だが、宗孝は、3人の側室に20人の子を産ませている。宗孝の七男健吉は、側室茂(大畑伊兵衛の娘)の4番目の子で、明治3年9月24日吉田陣屋で生まれた。

 宗孝は、明治4年6月廃藩置県により陣屋を引き払い、側室らと共に佐武丸に乗船して東京に転居した。成人した息子の健吉は、旧仙台藩家老・白石片倉家の婿養子となり、札幌白石村の開拓地に住んだ。その後仙台に帰り、伊達政宗を祀る仙台「青葉神社」の宮司となった。

 昔、片倉小十郎景綱は、伊達政宗の守役で軍師として名を馳せた。政宗は小十郎に一万三千石所領の白石城を与えた。機縁とはいえ、政宗の子孫・伊達健吉が、家来だった片倉小十郎子孫の養子となり、今でもその子孫は、政宗の神名「武振彦命」を祀った神社で宮司を務めている。

 ブロガーは、この度の東禅寺訪問で、宗孝公のお墓に線香をあげようとしたが、伊達家関係者以外は墓地に立ち入ることは許されず、墓地の方に向かって合掌した。

  

伊予吉田藩伊達家の系譜

①宗純(むねずみ) 宇和島藩主秀宗の五男(政宗の孫)吉田藩の藩祖享年73歳、墓は大乗寺

②宗保(むねやす) 宗純の次男 江戸で逝去20歳没、墓は東禅寺

③村豊(むらとよ)  秀宗の七男宗職の次男、松之廊下事件に遭遇、54歳没、墓は東禅寺

④村信(むらのぶ) 村豊の次男、在任26年間、病弱46歳吉田で没、墓は大乗寺

⑤村賢(むらやす)  村信の次男、天明大飢饉に見舞われる、45歳没、墓は東禅寺

⑥村芳(むらよし)  村賢の次男、吉田紙騒動に遭う、時観堂創設42歳没、墓は東禅寺

⑦宗翰(むねもと)  宇和島藩主村壽の四男、宗紀の弟49歳没、墓は大乗寺

⑧宗孝(むねみち)  山口直勝の三男、放蕩三昧、佐幕派で隠居78歳没、墓は東禅寺

⑨宗敬(むねよし) 山口直信の次男、宗孝の養嗣子、藩知事25歳没、墓は東禅寺

⑩宗定(むねさだ) 明治3年生まれ、子爵、昭和18年74歳没、墓は東禅寺

⑪宗起 明治34年生まれ、昭和15年没 子爵、墓は東禅寺

 定宗、定清、定継

***

 長々と「西国の伊達騒動」を掲載したが、江戸幕府の崩壊で伊達二藩も消滅した。

宇和島市には宇和島城があり、伊達博物館などに歴史文化の史料が遺されている。

我が吉田町は、かつての陣屋は姿を消し、幕末の騒動で関係書類は燃やされた。

史料は、わずかに簡野道明・吉田図書館で保存されているという。

 やがて日本の近代化に尽力する「吉田三傑」の時代がやってくる。