西国の伊達騒動 16


吉田藩紙騒動 (9)一揆のゆくえ

(ブログ、「西国の伊達騒動」吉田藩紙騒動を再開する)

2020年4月から中断していたブログを始めます。伊予吉田藩百姓一揆の勃発からその後のストーリーを創作するのに随分と時間がかかりました。2019年11月の頸椎の手術、コロナ禍と執筆意欲をなくしていましたが、百姓一揆の結末をみないとブログが中途半端になると思い、私なりに書きあげました。

 

 鈴木作之進は、十日夜五つ過(午後八時)頃に、出目村に着いた。

早速、興野々川原へ行った所、すでに代官の平井多右衛門が到着していた。

平井は、

「百姓共は、一旦は願いを差出すべき様子だったが、大声ばかりあげて立ち去った」

と怒っていた。願いが差し出されば、一揆の首謀者が分かると考えていたのである。

 だが多勢の百姓どもは代官平井のいう事など聞かず川筋を下って行った。作之進は、代官が出動しても、一揆の流れを止めることが出来ないのであれば、相当な人数が蜂起したものと恐れを感じた。

 その後、平井は部下を連れ百姓どもの後を追って川を下って行ったが、作之進は興野々川原で待機していると山奥組や川筋の庄屋が次々にやって来た。

庄屋のひとりが言った。

(山奥組の百姓衆は、自分で拵えた大縄を氏神様の社に掛けて引き倒し、‶願望成就して帰村の後はすぐに建立なし奉らん”と申して祈願していた。百姓衆の数はがいなもんで、竹やり、鎌、鍬を持って、とてもわしらの言うことは聞くものではない)

庄屋共は、恐る恐る百姓共の後を追いかけてゆく情けない姿だった。

 作之進は、百姓共が何処へ向かっているのか、見当がついていた。

(大縄を拵えて吉田に押寄せ、法華津屋を打ち壊すと噂を流す者がいるが、そういう大それたことはやらないだろう……)

 一方、奉行の横田茂右衛門は、一揆勢が宇和島藩に訴えることに危惧し、一揆の先手に向かい、

(願い事が有るなら今すぐに申し出ろ)と諭すように言ったが、多勢に無勢で百姓共の耳には入らず、奉行は、部下に先立つ者を捕縛するように命じた。

しかし、暴徒化した百姓共に逆に追い返され、這う這うの体で出目庄屋所に逃げ込んだ。暫くすると出目の役人が、奥ノ川・蕨生が怪しいと報せるので、横田は、出目に戻っていた作之進に吉野村へ行くように指示した。

 だが、作之進が庄屋と吉野村へ着いたときは、至って静かで人の気配がない。村役人が奥ノ川・蕨生から戻ってきたが、二つの村も静かで何事もないという。

作之進はやはり百姓共は、山奥組、川筋組と申し合わせて既に、三間方面まで達しているのではと推測した。

 十一日の夜明けになり、出目村より使者がきた。

(既に一揆勢は三間へ出立しました)

 これを聞いた作之進は、

「案の定だ、これは連中にかく乱された。直ぐに出目に向かうぞ」と云って出目村に戻ったが、一揆のほとんどは、すでに宇和島藩の近永村へ達していた。他の者たちは吉田藩領の三間郷方面に向かったという。

 近永村は出目村の隣にあり、交通の要所で以前は吉田藩領だったが、宇和島藩に領地替えとなり代官所が置かれていた。

作之進が近永村に着いた時に、代官の平井多右衛門は、

「山奥組が宇和島藩・近永村の代官友岡栄治に願書を出すのではないか」

と心配したが、作之進は、宇和島藩の領地に一揆勢が安々と入れたことに疑念を抱いた。

平井多右衛門は、山奥組が川筋衆と合流し大勢で宇和島藩領の近永村へ向かうのを止めようがなかった。蜂起した百姓共の勢いには、どうすることも出来なかったのである。

 一揆の主謀者、上大野村の武左衛門は、集結場所としている三間郷に入るには、宇和島藩近永村を通らなければならない。当初は、吉田表の法華津屋を襲撃すると檄を飛ばしたが、それは勢いをつけるためで、実は別の考えがあった。

武左衛門は、近永を通過する許可を代官に願い、百姓らが蜂起した事情を宇和島藩に訴えようと考えた。

宇和島藩の代官友岡栄治は、吉田藩の百姓衆が騒いでいる情報は早くから知っていた。近永村に乱入した一揆勢に向かって、

「徒党を組んで我が領地に侵入するとは尋常の沙汰ではない。願い事があるのであれば一揆の頭領は、その旨を申出るがよい」と言い放った。

武左衛門は、正直に一揆の闘争方針を説明した。

「我らは吉田藩に願いがあり三間の宮野下に向かっています。何卒、ここを通してもらいたい。願書は、八十三か村の総意をもって藩に出すつもりでおります」と頭を下げ、そっと代官の顔色を伺った。

 代官友岡栄治は、武左衛門を見て中々話が分かる男と思い、山奥組、川筋分の願い事でもよいから書付を出すようにと申し付けた。

友岡栄治は、一揆勢の書付を待つために吉田藩の平井多右衛門と近くの酒屋に入った。

友岡は平井に、(他藩ながら百姓共の振舞いは捨ててはおけない、詳しい事情を聴かせ願いたい)というと、平井は、

(我が藩は天明の飢饉、町内の大火事、幕府の普請等で藩の財政が苦しく、領民への年貢が増え、百姓共の不満が爆発したものと思う。しかし昨年暮れには、紙の規制を緩め、紙漉きの農民は静かになっていたが、今年になって又蒸し返してきた)

と苦々しく吉田藩の内情を漏らした。

 しかし友岡は、山奥川筋の紙すき百姓だけの騒動ではなく、この一揆は、吉田藩全体の百姓衆の怒りとみていた。

 武左衛門は、山奥川筋分の願書をどうするか頭をひねった。(三間郷にはまだ吉田の百姓や、浦方の連中が集まっていないだろう。ここは時間稼ぎで近永にしばし留まろう)と、友岡の許しを得て一揆勢を吉田藩領の国遠、清延辺りに分散させて一夜を明かした。

 一方の作之進は、方々に出向いたが、十一日昼九つ時分(十二時)に三間郷の宮野下村へ入っていた。

 三間郷は土地が広大で、武左衛門と別の一揆勢は三手に別れて、三間の百姓衆と合流し各村を一揆に駆り立てた。どこの村も松明を振り立て、竹貝を吹き鳴らし、鉄砲を打ち雄たけびを上げていた。中には暴徒と化し法華津屋の出店の酒樽を持ち出し酒を飲み、肴を食い荒らした。

 三間郷は、広大な穀倉地帯で、米、大豆の生産地である。村も三十カ村あり、吉田藩年貢の大半は三間郷が担っている。村の中心は「三島神社」の下にある宮野下村である。六年前の天明七年に起きた土居式部騒動で、神主の式部は連綿と続いた名門土居家を断絶させた。

一揆勢はその因縁のある三島神社に結集して鬨の声を上げた。

 

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 (3年前、同級会で帰省の折、三間町三嶋神社に参る)