西国の伊達騒動 21

吉田藩紙騒動 (14) 一揆の頭取たちを逮捕

 吉田藩の領民が帰村した後、二月二十三日、代官たちは各村で、八幡河原で申し渡した十一か条に加え、具体化した内容の十二か条を言い渡した。

 代官らはこの申し渡しに村浦を回り、漸く二十六日に陣屋へ帰ってきた。

しかし、百姓側にはまだ納得しない者もおり、いざこざはその後も続いた。

 作之進は、三月六日、三間郷でまた願い事があるというので、奉行横田、代官岩下らと出かけた。三間、川筋まで村々が数か条に渡って願い出たので、作之進は、その対応に孤軍奮闘した。

 さて、四月になって江戸表から岡伴右衛門、越川勘平が帰国した。

大早の二人は、二月十三日夜吉田を出て、二十四日に大阪北浜の藩邸に着いた。お届けの後すぐに立ち、三月四日江戸に到着した。

 江戸南八十堀の吉田藩上屋敷は、第一報で百姓どもの不穏な動きを知ったが、大早の注進で百姓一揆が起きたと聞き、蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。

家老の松田六右衛門は、幼君伊達村芳に国元で重大事件が発生したことを伝えた。まだ十五歳の殿様は、遠い西国で何が起きているのか想像もつかなかった。

 その後の大早二便で、家老安藤義太夫切腹、百姓どもが帰村したことを聞き、事態の急展開に上屋敷は右往左往した。

 松田六右衛門は、藩を揺るがす大事件の対応に、麻布龍土町宇和島藩上屋敷を訪ね、藩主伊達村候のご高配を仰いだ。

 村候は、吉田藩の家老に推挙した安藤義太夫が藩のために割腹したと知り、

「まことに残念至極であるが、義太夫は一死をもって吉田藩を救った!」

と、これこそ武士の鑑だと落涙した。

 また、宇和島藩と吉田藩が協力して一揆を収めたことを褒め称えた。

だが、強訴、逃散は天下の御法度、一揆の首謀者を召捕るように助言した。

 宗家の伊達村候は、吉田藩の百姓どもが、我が藩に越訴するとは青天の霹靂だった。ご公儀は、既にこの騒動を情報で掴んでいるだろう。だが家老の切腹一揆を収めた。今後、首謀者の断罪を行うことで、分家の改易は免れるだろうと考えた。

 四月一日、江戸から帰った二人は、すぐ重役たちに江戸表の藩命を伝えた。

 勇猛果敢な中老郷六惣左衛門は、「直ぐに捕り方を集めろ!」と号令した。

宇和島藩の役人は、頭取の吟味はしないと百姓どもに約束していたが、吉田藩は、家老安藤の犠牲もあり武家としての面目がある。まして強訴は天下の御法度で、頭取たちを逮捕、処罰しないと藩の存亡にかかわる。

 やがて捕手人が陣屋屋敷に呼び出され、秘密裡に戦略が練られた。

いよいよ、一揆のリーダーたちの大捕り物の始まりである。

 さて、作之進は騒動が一段落して、いつもの「宮長」で一杯やっていた。翌日、上役から招集がかかり、(また一仕事やるか~)と鼻をすすって奉行所へ向かった。 

 作之進は、今度の騒動は山奥組から始まっており、上大野村に強力な頭取が潜んでいると目を付けていた。山奥川筋の情報は、普請方の岡部八左衛門から聞いていた。

岡部は、洪水で荒れた土地の井手川普請で、二月二十日から足軽たちを連れて、修築工事の監督に来ていた。岡部は藩命もあり部下を使って騒動の首謀者を詮索していた。

 ある日、岡部は井手川で働く人夫たちに夫食米を多めに支給し、酒肴を振舞い一緒に酒を飲んでよもやま話をした。ほどなく岡部は、一揆を扇動した頭取のことを、大した男だとえらく褒めた。

「そのような人物であれば我が藩も士分に取り立てるだろう」というと、大酒を呑まされ酔っぱらった人夫は、

「一番がいな頭取は、この村の武座衛門様だあ、この人のお陰でわしらは何とか喰っていけるんや」と調子に乗って喋りだした。岡部は、上大野村の頭取に鉄五郎らが居ることも突き止めた。

 四月十一日、郷六惣左衛門は、岡部らの情報から山奥組が一番の標的と見て、百二十人ほどの精鋭な部下を集め、武座衛門ら頭取たちの逮捕に乗り出した。

 十三日昼九つ時(十二時)に御中間ら六人が出発した。黒井地の庄屋が案内し宇和通りで高野子村へ向かった。後続隊の山本友右衛門、今城古兵衛ら十五名も八つ時(十四時)に立った。これらは背後の高野子村から上大野村へ入る段取りだった。

 すでに山奥の奥組へは、この辺の土地に詳しい岡部八左衛門と御徒士目付の西村善右衛門が、銀札持参で忍び込んでいた。変装した坊主、小頭、足軽、御小人の十六人に弁当を渡して高野子村の捕り手を待った。

 作之進は、夕七つ時(十六時)に出発した。山奥の口組へ、村目付の二関古吉に付いて平田伴之亟、檜垣甚内ら三十名近くと、夜通しで三間郷を通り川筋村へ向かった。

その後から土居勇八、高木勝蔵など十五人がゾロゾロ付いて来た。作之進は銀札を持参して弁当を銘々に渡した。

 三間郷の宮野下村、興野々村などには、平井多右衛門など代官四名が出張し役人ら数十名で警備に当たった。

 このような大捜査網で、十四日明け方から昼過ぎにかけて、騒動の首謀者らを一斉に召捕った。

 逮捕された者は、上大野村の武左衛門、勇之進、鉄五郎。小松村は徳蔵、延川村は清蔵、川上村は彦吉庄右衛門、彦之亟、藤三郎であった。

これらの囚人は、十四日夕七つ時過ぎに吉田表の奉行所へ引出され入牢した。

 郡奉行は、囚人の取り調べで各村のリーダーたちの全貌が分かってきた。

 それにより、四月十七日から次々にリーダーが逮捕された。

小松村・藤吉、澤松村・藤六、延川村・清蔵、三四郎、高野子村・幸右衛門。

六月に入って、国遠村・ 幾之助、興野々村・彦右衛門。

七月、兼近村の 金之進、六右衛門、久兵衛、辰之進が最後の召捕りとなった。

その後、参考人として十七か村、八十二人が呼び出され吟味された。

 長い吟味の末、目付所に引き渡されたのは、次の九人だった。

上大野村・ 武左衛門、鐵五郎

延川村・清蔵

澤松村・藤六

兼近村・金之進、六右衛門

國遠村・幾之助

興野々村・彦右衛門

上川原渕村・與吉 

他の参考人は釈放され、各村へ帰って行った。

 吟味の結果、百姓一揆の中心人物は武座衛門だった。この男が詳しい事情を知っており山奥組の願書を取り計らい、各村から闘争資金をもらっていたことが判明した。

沢松村・藤六、国遠村・幾之助の二人は副頭取で、武座衛門のような切れ者ではなかった。これらの連中が、吉田藩の役人や豪商の悪説を言いふらし、吉田藩の百姓らを扇動し、いざという時には、皆が立ち上がるように巧妙に仕組んだものと分かった。

 作之進は、この一揆を起こし扇動したのは、山奥、川筋と三間の連中と分かり、やはり吉田郷や浦方は、仕方なく労働争議に駆り出されたのだと推察した。

 この年の九月十五日、吉田陣屋町は、南山八幡神社神幸祭で賑わっていた。

 作之進は、(御用お練り)に駆り出され、街をひと回りして「宮長」で酒を飲んでいた。そこへ同僚の兵頭敬蔵、岡部八左衛門が、(御船お練り)の先導役を終えて店に入ってきた。外は、塔堂車、武内宿禰などの練車が通って見物人が大勢出ている。

 「いや~ご両人ご苦労で御座った。まあ今宵はゆっくり飲みましょうや」と呑兵衛作之進は、ご機嫌である。

 兵頭敬蔵は、「秋のお祭りは大したものだのう。江戸の若殿さまもこの祭りをご覧になるとタマゲらい」

 すると岡部八左衛門は、情報通らしく、

「上司の話では、村芳公は来年には御初入するらしい」と得意げにリークした。

周りの酔客が騒がしいことを良いことに、作之進は、極刑に処せられた武座衛門の話をした。

「実はのう、武座衛門の家捜しの折、こんな書き物が出たのよ」といって、二人に戯れ歌の書を見せた。

  どうぞがなとすがる小島の袖きれて宇城の袖にすがる三萬

「小島とは奉行のことで、宇城は宇和島藩、三萬は吉田藩のことか」と兵頭は中々うまいこと書くなと感心した。

  冬春の狸を見たか鈴木どのばけあらはして笑止千萬

「鈴木どのとは作之進のことよのう、貴殿は山奥組に縁が深いからこんなことを書かれるのじゃ」と岡部は茶化した。

作之進は、まだ外にも一杯あるが憚り多いので仕舞っている、といって、

「だがのう、わしは、武座衛門のことを知らんのじゃ。奉行所で見たのが初めてで余程、隠密で動いていたのであろう」さらに、

「この男は本当に百姓であろうか、吉田藩すべての百姓を一揆に駆り出し、願書をしたため宇和島藩に訴えた。さらにいろいろ戯れ歌も詠む。こういうことは、百姓にはできまい、土佐あたりの浪人崩れではないか」と吞兵衛はしみじみと言った。

 お祭りの夜、町人町は遅くまで賑やかだった。三人の役人は、中秋の名月を見ながら桜橋を渡って、家中町に消えて行った。

 

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(吉田秋祭り・お練り)