西国の伊達騒動 19

吉田藩紙騒動 (12)安藤義太夫切腹

 山奥組や川筋の連中は、九日夜の出立から四日目となり疲労困ぱいの様子だった。 武左衛門は、山奥、川筋の楮・紙すき農民の願書を出しているので、あとは三間郷、吉田郷の百姓衆の出番と考えていた。

 八幡河原には、全村の百姓衆が揃うことになったが、一揆のリーダーたちは、歎願書のことでもめていた。筆の立つ武左衛門は、清書は引き受けるが表に立っての行動は控えたい、と同志に伝えていた。一揆の頭取は藩の処罰を受けるのは必至である。誰も表に立つことを拒んでいた。

しかしこれだけの群衆が集まっての争議である。長年の恨みつらみがあり、言いたいことは山ほどある。歎願書は出さねばならない。

 そもそも吉田藩は、「百姓は生かさず殺さず」というやり方で苛斂誅求した。

 藩は年貢米を、米一表の中に四斗六升、大豆一俵に五斗を詰めさせた。これは他の藩より量が多く農民は強く反発した。枡の量り方にも藩の有利なように卑劣なものだった。さらに雨天は湿気でかさが増えるとして、米俵を地面に置くことは許されなかった。雨が続くと何日も逗留しなければならなかった。

 リーダーたちは、願い事の整理を行っていた。山奥川筋の紙役所の廃止や借金の棒引き、また浦方の要求を聞き、三間郷など穀倉地帯の年貢米など不当な扱いを止めるよう箇条書きにしていた。

 吉田藩中見役の鈴木作之進に、三間の澤松村、吉田の立間村・喜佐方村、浦方の庄屋から内々の申し出があった。庄屋たちは、百姓衆を説得して直ぐにでも連れ帰ることが出来るというのである。作之進は自分の一存で云々できるものではないので、宇和島藩の役人や吉田藩の奉行らに相談したが、(それは一部の村で、吉田藩の全村が帰村するというのではないだろう)と一蹴された。そういう話が出るほど、一揆勢の中から寒さと飢えで、里心がついた百姓が出てきたのであろう。

 作之進はいつになったら雨が止むのだろうかと菜種梅雨の空を見ていた。百姓どもは、村毎の仮小屋で焚火をしてガヤガヤ騒いでいる。

 三間郷のリーダーたちは、一揆勢のタガが緩まぬよう各村の頭取格に、

(これからが勝負だ!わしらは今から願書を出す。各村の要望をすべて書いている。この願い事が叶うまでここを一歩も動かんぞ!)と大声で結束を呼びかけた。

 十三日夜九つ(午前〇時)吉田藩はこの緊急事態に、御用場掛りの岡伴左衛門、奥物頭兼小姓頭の越川勘平を大早飛脚として、江戸南八十堀の上屋敷に向かわせた。

十日夜には、百姓一揆の兆候有りと一報を発していたが、両名直々の御注進となった。江戸には家老の松田六右衛門が若殿の補佐役で出府していた。

 その頃、吉田陣屋の御船手に一隻の小舟がつながれていた。舟に乗っているのは、末席家老の安藤義太夫継明である。船着場に町年寄の岩城覚兵衛を呼んで、「これから宇和島へ参る。町内のことは頼んだぞ」と神妙な顔で云い渡した。

安藤の信任を受けている岩城は、只ならぬ家老の様子に「かしこまりました」と頭をさげ、無事のお帰りを祈った。

 明けて十四日未明、宇和島港に着いた安藤義太夫は、吉田藩定宿の伏見屋へ向かった。宿に詰めていた奉行の横田、小嶋に八幡河原の様子を尋ねた。

「未だ、農民らの歎願書が出てまいりません。昨日は中老の郷六惣佐衛門殿も参られて説得するも、なしのつぶてです」と横田茂右衛門が答え、(宇和島藩から安藤殿にすぐに登城せよ)との伝言があったことを告げた。

「相分かった。登城の前に中間村庄屋所で、宇和島藩の徳弘弘人殿に会っておこう」といって、若党の渡辺定右衛門を連れ、伏見屋の駕籠で出て行った。

横田は、興野々村の庄屋新次郎が町會所へ来るというので、役人衆と出かけて行った。

小嶋と中見の沢田儀右衛門は、御用につき吉田へ帰っていった。

 中間村についた安藤義太夫は、陣頭指揮をしている奉行の徳弘弘人に会った。

「我が藩の百姓どもの強訴で、貴藩の領地に踏み入ったのは誠に申し訳ない。お詫びのしようが御座らん。百姓どもの願書が出ていないようなので、今一度早く願い事を出して帰村するように説得いたす」といって八幡河原に向かった。

 安藤は途中で駕籠を降りた。田んぼから歩いて河原へ向かった。雨の中を駕籠で駆けつけたのでは、申し訳ないと思ったのであろう。

 河原に行くと、百姓どもが(また吉田陣屋の重役が見物に来たぞ)と囃し立てた。

それでも安藤は、百姓の数十名を呼び寄せて胸の内を吐露した。

「先月の山奥組の歎願は聞き入れ、紙方役所は廃止した。しかしその他の願い事は藩の窮乏でやむを得ぬ処置となったが、すべては巳共の不徳の致すところで陳謝する。

だが、皆が宗家に越訴に及んでは、江戸にいる殿様村芳公に申し訳が立たない。早急に歎願書を出し裁許を受け、各々の家に帰り農事に励んではくれぬか」

 この話を聞いていた百姓のひとり武左衛門は、(ご家老はお家のことばかり考えているが、百姓衆の生活が立ちいくことが、お家安泰になるのではないか)と不満に思ったが口には出さなかった。

 武左衛門は、そろそろ潮時だと思った。吉田藩の重役が河原にやってきて帰村を呼びかけている。百姓衆も疲労困窮で闘争意欲が減退している。早く藩への要求を纏めなければいけない。

 武左衛門は、河原の集会場所へ帰りながら、家老安藤の心内を推し図った。あの真剣な眼差しに嘘はない、あの人物なら改革を出来るのではないだろうか……。

 安藤義太夫継明は、堤の上で櫻田監物と尾田隼人宛てに書状をしたため、静かに煙草を四五服吸った。それから、かねて用意していた挟箱より白無垢の小袖と麻裃に着替えて、家来の定右衛門に、「心して介錯せよ」と命じて割腹した。

 この時、安藤四十七歳、覚悟の切腹だった。この騒動が長引くと公儀に聞こえ、お家断絶になるやも知れない。江戸の若き藩主や恩のある宇和島藩主の村候様に会わす顔がない。一命をもってこの事態を収拾できればこれに勝るものはない。……と決心したのであろう。

 そのような家老の崇高な精神に考えが及ばない役人たちは、安藤の切腹に右往左往していた。

 変事を知った奉行の横田茂右衛門は、御郡渡一人を河原へやり、養生所を借り受けるよう指図した。吉田から帰っていた奉行小嶋源太夫は、宗家の徳弘弘人と面談し、安藤の切腹は病死として処置するよう話が決まった。

 作之進は横田の指示で河原に行った。すでに並河順安という町医師が伏見屋から頼まれ川縁の養生所に来ていた。作之進は、来る途中で中老鈴村弥兵衛の家来に出会い、「ご養生はお控えなされよ」といわれた。これは変な話だと小嶋源太夫へ伺うと、

「徳弘殿と申し合わせのことである。医師も参っているので早く養生にかけよ」といって町宿に帰ってしまった。

 だが、並河順安は、「この様なご変病はお墨付が無くては療治に掛かれませぬ」というので、御郡方の與次右衛門、作右衛門を養生所に残し、伏見屋へ帰り相談することになった。帰り路、順安は作之進に、「安藤殿は立派に往生された」とすでに手の施し様はないと告げた。

 伏見屋で小嶋源太夫順安から安藤の死を知り、作之進に河原へ戻って亡骸の始末をするようにいった。作之進が河原に戻ると、すでに宇和島藩の検視役と中老鈴村弥兵衛が来ていた。亡骸を田んぼに残した伏見屋の粗末な駕籠に納めた。

 作之進は、家老の大小の刀も改まり、白無垢も御持参していたので、覚悟の上の切腹と推察した。

だが安藤様は、なぜ格式の高い家老用の駕籠を使わなかったか、その心底を計り知れなかった。また小嶋源太夫殿は、家老のご遺体を伏見屋の駕籠に戻し、病死に見せかけ様としたのはどういう訳なのか……)春雨の中で作之進は、暫く考え込んでいた。

 安藤義太夫は、百姓衆の前で腹を切った。吉田藩の役人が、家老は病死といっても、それは隠し通せるものではなかった。

 安藤の熱き血は、水嵩の増えた須賀川をくだり、宇和島藩家老・山家清兵衛を祀る和霊神社の下を通り宇和海に流れていった。

 後に、安藤義太夫の忠誠心に感動した人たちは詩歌を手向けた。

  ながれても後をぞさそな願ふらん身は河水の泡ときへても

  あは雪と身は消えゆきて一国をかためし名こそ世々に朽ちせず

  惜しからず花はちりての操かな

 この日の夜半、村目付の二関古吉は、家老安藤義太夫切腹を伝えるために江戸表へ出立した。

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安藤義太夫忠死の碑(2018.3.22 宇和島市伊吹町で撮影)