西国の伊達騒動 18

吉田藩紙騒動 (11)八幡河原へ集結

 二月十二日、ついに百姓一揆の群れは、宇和島藩領に流れ込んだ。

三間に来ていた目付の久徳半左衛門は、この事態に急いで吉田藩陣屋へ帰った。

 郡奉行・小嶋源太夫は、中見の沢田儀右衛門を従え宇和島へ向かった。その後から、草履取りなどの下役や、陣屋近くの河内、白浦等の庄屋連中もぞろぞろ付いて行った。 

 もう一人の郡奉行・横田茂右衛門は部下の兵頭敬蔵らと山奥組などが足止めを食っている近永村近辺の清延村に引き返した。

 武座衛門が近永で踏みとどまっている時に、三間の幾之助から、

(我々は宇和島に出る、早々に合流するように)と伝言が届いた。

 武座衛門は、山奥、川筋の願書を代官友岡に差し出しながら、楮・紙すき農民の苦境を訴え、豪商・法華津屋の強欲ぶりを批判した。また三間郷に集まった同志と行動を共にするため宇和島に向かいたいと申し出た。

 友岡栄治は、すでに吉田藩が紙新法を廃止したこと、三間の集団が窓峠を越えたことを知っていた。近永に集まった百姓衆が吉野川筋の村なども含め、千人ほどに達していたのでこの勢いは止めることは出来ないと判断した。

 しかし友岡は、宇和島藩の吟味役鹿村覚右衛門らと協議し、百姓どもを一旦、出目村まで引き下がるように申し付けた。

 やがて友岡は、吉田藩奉行の横田を呼び、

「我らは百姓どもの願書を預かっているが、今から宇和島へ向う。よって貴殿は後から百姓どもに奈良通りを宇和島へ出るよう指図されたし」といった。

 横田は、友岡が他藩の領民を宇和島に誘引することに不信感を抱いたが、百姓どもの勢いを止めるすべもなく友岡の指示に従った。

 武座衛門は、近永あたりで足止めになったが、代官友岡の思惑により宇和島への道が開けていた。

 武座衛門は、これまでの動きを振りかえっていた。

(申し次ぎは吉田藩八十三か村に届いている。飛び地の浦方も宇和島番所を通って集まるだろう。三間に集結した仲間はすでに窓峠から光満村に入っている頃だ。幾之介には八幡河原で合流することを伝えている。三間、近永、浦方の三方から一揆勢は、八幡河原を目指している)

須賀川を下りながら、この闘争は半ば成功したと思った。

 一方で、作之進は宮野下に残っていたが、奉行横田から宇和島に参るように言われたため、一旦、吉田陣屋町へ戻った。家で休んでいる暇はない、すぐに髪月代を直し郡奉行所へ必要書類を取りに行った。書類をまとめるのに時間がかかったが、夜九つ(午前0時)雨の中を出発した。

 横堀番所から町人町へ出て様子を見たが、法華津屋の主人たちは大洲藩の方へ避難したらしく店はひっそりしている。知永に出て大浦通りを夜通しで歩いて宇和島に向かった。十一日朝から降り出した雨は、十二日深夜には大雨となった。不休不眠の日々であるが、今が一番大事な時だと気合を入れた。

作之進は、普段、居酒屋で飲んだくれていたが、事件があると俄然張り切った。

 明けて十三日、一揆勢は次々と八幡河原に集まってきたが、五千人ほどに膨らんだ群衆は、ずぶ濡れになって寒さと空腹に耐えながら草むらに佇んでいた。

 これを見かねた宇和島藩の豪商たちが、河原に大釜をすえ粥の調達をした。

 当時の宇和島藩主は、五代目伊達村候で名君と讃えられ、特に農政に力をいれ農政改革、農業振興を図った。吉田騒動の時、村候は江戸詰めで息子の村壽(むらなが)に藩の治世を任せていた。村壽は、父親譲りの人徳家で、吉田藩の百姓衆が雨に打たれているのを見て居れず、雨露をしのぐ苫を出し仮小屋をしつらえた。更に米俵を運ばせ粥を食べさせた。

 八幡河原は多くの百姓で一杯になり、八幡神社の大イブキの周りや軒下で雨露をしのいだ。このイブキは、大昔、伊予守源義経が家来に植樹させたものである。

 作之進は宇和島に詰めていたが、百姓どもは宇和島藩に訴えるといっており、取りつく島がなかった。吉田藩の目付、郡奉行、代官、庄屋は日々、八幡河原へ行って百姓どもの様子を窺ったが、どうすることも出来なかった。

 宇和島藩の役人は、八幡河原の近くにある中間村庄屋所で、近永村代官の友岡栄治が受取った願書を吟味中であった。

 御郡奉行の徳弘弘人は、友岡の差し出す願書を見ながら、

「これは山奥組、川筋の願書ではないか。吉田藩全体の願書はどうなっているのか」と役人どもに聞いた。

 すると吟味役の鹿村覚右衛門は、

「各村の百姓どもに願書を出し速やかに帰村するように申し付けましたが、百姓どもは吉田藩の全村が揃ってから、歎願書を提出すると申しています」と説明をした。

 一方で伊予吉田藩は、藩主の不在中に百姓一揆が起き大騒ぎになっていた。筆頭家老の飯淵庄左衛門は病気で臥せっており、急遽、次席家老の尾田隼人が八幡河原に乗り込んで行った。

部下の役人たちを群衆の中にいれて、

(ご家老がお見えである。願いの筋あれば申し出よ)というと、百姓どもは、

(吉田の役人には用がない、吉田に用があればここに来るわけがない)と誰も相手にしなかった。それでも役人たちは、数か村の百姓どもを尾田の前に連れてきて、このまま帰村すればお咎めはないなどと説得を試みたが、効果はなかった。

 中見役の作之進は雨の降る中、河原で三間郷の連中から噂話を聞いた。それは、

(今後は年貢を宇和島に納めるようになる)と言いふらす者が居るとのことで、それが歎願書に付け加えられるというのである。

 作之進は、昔、上司から吉田藩分知の話を聞いたことがあるが、それにはいろいろと複雑な事情があり分らないことが多かった。

 宇和島藩祖の伊達秀宗は最晩年、五男の宗純に三万石を分け与えた。

 吉田藩設立には秀宗の末弟、伊達兵部が絡んでいるというが、そもそも十万石級の大名が分知するには、せいぜい一、二万石が適当といわれるが、なぜか秀宗の遺言状に(宗純に三万石を分知せよ)と明記されていた。

 そのために、米所の三間郷に、山奥・川筋地区、立間郷(吉田)と、浦方の飛び地を加え三万石をひねり出した。

 その結果、宇和島藩は、宇和海沿岸部から土佐藩近くの山奥まで領地の中央部分を分断して吉田藩へ分知することになった。

 西国の伊達二藩は、お互いに目と鼻の先にあるが、幕藩体制で参勤交代にはそれぞれ莫大な費用がかかった。

 二藩は海を渡るのに千石級の御座船を建造した。殿様たちは、船団を率いて鉦や太鼓を叩き、舟歌を唄い賑やかに出港したという。御座船は宇和海、瀬戸内海を航海、十日から二十日をかけて大坂へ着いた。その後、東海道大名行列し十五日程で江戸表に到着した。

これら大移動の莫大な経費もさることながら、江戸詰めする藩邸の出費も相当なものだった。このコストが伊達二藩の領民の年貢などで賄われている。

 近世において、宇和島、吉田の百姓一揆の数が異常に多かったのも、このような西国伊達藩のいわば二重経費に遠因が有るかも知れない。

 幕藩体制も寛政年間になると各藩は財政難となり、幕府の老中松平定信は、質素倹約を奨励し「寛政の改革」を行った。

 吉田藩は慢性的な財政難に対処するため、紙などに専売制を導入し、百姓衆から過度に年貢を徴収した。

だが、我慢の限界を超えた百姓衆はとうとう一揆を起こした。

 作之進は、吉田藩の百姓どもが宇和島藩に越訴、逃散を企てていることに懸念を示した。宇和島藩はこの機に乗じて、米所の三間郷を取り戻すことも考えられる。

一揆を扇動する誰かが宇和島藩と結託しているかも知れない。この度の騒動は余りにも手際が良い。これだけの群衆を集めて百姓どもは何を歎願するのか……)

f:id:oogatasen:20180322144743j:plain
f:id:oogatasen:20180322145507j:plain
八幡神社のいぶき     八幡河原(2018.3.22ブロガー撮影)