がいな男 (7)船を持つ

 亀三郎は自伝『沈みつ浮きつ』で児島惟謙のことを〝実に気迫の人であった”と語り、徳富蘇峰は(児島翁は真に硬骨男児である)と評した。

ーー児島惟謙は明治28年5月、貴族院議員に任ぜられた。これは、伊藤博文総理が参内した折、明治天皇から児島についてご下問があり、(彼こそ貴族院議員として適はしからずや)という御言葉で伊藤が上奏した結果だった。

その後、児島が衆議院に鞍替えすると聞いて、亀三郎は今西林三郎が同じ愛媛県第6区から立候補することになっていたので穏やかでなかった。

早速、大森の児島邸を訪ね、「あなた様は貴族院議員であられるのに、郷里から衆議院選挙に出られると聞きましたが、一体どういうことでしょうか。ご紹介いただいた今西さんが出馬することはご存じでしょうか」とやや強い口調で聞いた。

すると、「俺は出る意思はないが、田舎の者が推していて困っておるのだ」と児島がいうと、「それなら郷里の有力者に一筆書いて頂きたい。わたしはそれを持って帰郷します」と亀三郎は、(今西林三郎は俺と同じ主義の者なので今西を推してくれ)という内容の手紙を携えて帰省した。地元の新聞社は、山下亀三郎という男が、児島惟謙の選挙を妨害していると報道し、街は大騒ぎとなった。

 そもそも児島は、衆議院選挙に出ることは本意ではなかった。当時、自由党全盛の時代、進歩党は劣勢で傑物を立てなければ、自由党に対抗することは出来ないと、児島が推されたのであった。児島は、進歩党有志の熱意にほだされ、貴族院議員を辞し自由党の今西と争うことになったのである。

3月15日に行われた第5回衆議院選挙の結果は、南宇和郡北宇和郡の第6区は、児島惟謙が401票、今西林三郎が399票の2票差という大接戦だった。

 

2022/3/14 内航海運新聞

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