俳人無逸(吉次郎、病床の子規を訪ねる)

先日、恩師の渡部先生から、新たな情報が入った
「松山子規会」の資料に清家吉次郎に関するものがあるという
明治33年東京根岸に病床の正岡子規をたずね俳句をすすめられる、というもので
早速、田舎に問い合わせたところ昭和11年無逸会が著した「無逸清家吉次郎伝」情操篇に
(病床の子規を訪ねて)と題して書かれていることが分かった
***
子規は吉次郎に「俳句をはじめては何うか」と言い出した
吉次郎は「わしには発句のようなめんだうな事は出来やせん」と言うと
「なあに、そんなにめんだうなものではない」と、庭の方を眺め
   残暑如∨燬紫陽花の花腐りけり
と、半紙に書いて示した、また一句をさらさらと書いて示した
   梅干すや桔梗の花の傍らに
この二句は「子規全集」にも載せられているが、子規は更に七、八句を認めた
吉次郎は「なるほどこれならおらにもやれるわい」と感心した

無逸伝の追想篇に(清家氏の映像)と題し、五百木瓢亭の主宰誌「日本及日本人」の記者阿部里雪が
吉次郎の病床を見舞った時のことを語っている
吉次郎は既に絶望期で、親友の山下亀三郎が京橋の店からわざわざスープを送ると喜んでたべた
というような話を阿部は聞かされたそうである
阿部は見舞い品を考えた挙句、五百木瓢亭先生に半折を書いてもらいそれを持参した
容態が悪い中、夫人は吉次郎が是非お目にかかりたいと言っているので会って下さいとのこと
吉次郎は「結構なものをありがとう、何も喰うことができないので、ああしたものを壁に貼って
眺めているのが一番の楽しみですよ」と元気そうに笑った
壁には下村為山の絵に村上賽月の俳句、瓢亭先生の半折も貼られたが吉次郎は
「相変わらず瓢亭先生のは面白いですね」と喜んだ
***

吉次郎は昭和9年2月23日に死去した
渡部先生の推測では、子規は、明治33年の8月には病状が悪化、喀血もあり衰弱が甚だしく、面会日は偶数日のみ、急な来訪は謝絶の状態(「消息」ホトトギス)、そんな状況で清家吉次郎の訪問を受け入れ、俳句談義をした、ということは吉次郎への特別な思いがあったのではと仰っている

吉次郎は明治33年、子規に会っている、2年後に吉次郎は海南新聞(現愛媛新聞)にペンネーム(せ、き生)で投稿した
それが子規最後の随筆「病牀六尺」第1回目(M35.5.5)に取り上げられたが、子規が吉次郎の教育論に共感したことは間違いない
来年は吉次郎の「欧米独断」についてアップしたい


一句
年越しや獺祭無逸遠くなり