「トランパー」出版まであと9日(喜佐雄の演説と筆者の入社時代)

昭和三十九年(一九六四)四月一日日本郵船、大阪商船三井船舶、川崎汽船、ジャパンライン、山下新日本汽船、昭和海運の六中核体が発足した。この年、東海道新幹線が開通し、東京オリンピックが開催された。舟木一夫の「高校三年生」赤い夕日が校舎をそめて〜が大ヒット、今では団塊世代のカラオケ定番となっている。
(喜佐雄の日東近海社長就任演説)
喜佐雄はジャパンライン専務となったが、子会社の日東近海社長が急逝し急きょ社長の任に当たることとなった。
喜佐雄の社長就任演説の序
――わが社は一個の企業体である。独立採算制を堅持し、あくまでも自主独立の根性に徹し事に当らなければならない。此の観点から今一度虚心坦懐にお互い自己反省をしてみたい。
即ち、従来マンネリズムに陥ってはなかったか?
他力的依存性が強すぎたのではないか?
イオニア精神が欠如してはいなかったか?
責任感は旺盛であったか?
等々真摯な態度で反省し、且つ洗脳し、心身爽快、捲土重来の意気を以って邁進すべしである。(後段は本書に記載)

 筆者は、戦後ベビーブームの頃、昭和二十四年一月十五日、愛媛県北宇和郡吉田町本町に生れ、吉田三傑が創設した村井幼稚園や吉田と名が付く小、中、高校で学んだ。姉は山下女学校で学び、男兄弟4人はすべて吉田高校を卒業した。
昭和四十二年(一九六七)三月六日、伊予吉田駅で「うわじま三号」に乗った。予讃線宇高連絡船寝台列車と乗り継ぎ、東京駅に着いたのは翌朝だった。ホームで3歳上の兄が待っていた。母方の親戚であるジャパン近海・浜田喜佐雄社長を頼って上京したが、船のことは何も知らない山出しの田舎者だった。
 勤め先は華の丸の内、寮は渋谷の代官山、仕事はそっちのけで「立てばパチンコ座れば麻雀歩く姿は馬券買い」のギャンブラーだった。想えば遠くへ来たもんだ…歌の文句ではないが亀三郎、喜佐雄が築いた海運界に47年間もよく働き続けたと思う。
 この本が書けたのも先輩たちのお蔭、ふるさと吉田のお蔭と感謝の念でいっぱいである。
一句
若き日の想いでいずこ初日の出(昭和42年頃 皇居二重橋