小林朝治と畦地梅太郎

連休に田舎で中学の同級会があった。古希の記念に旧交を温めた。
翌日、三間町の「道の駅みま」にある「畦地梅太郎記念美術館」を訪ねた。
梅太郎は小林朝治の版画に影響を与えた人である。
朝治は1927年(昭和2年)吉田病院の眼科医長となった。
医者になったが創作意欲はやまず、同好のサークルをつくり洋画展を開いた。
その頃、三間出身の版画家・畦地梅太郎と出会い、版画に目覚めたのではないだろうか。
朝治は黙って梅太郎の版画を買った、その頃は版画で暮らしが立つ時代ではなかったので
梅太郎は感激した。
須坂版画美術館には梅太郎の作品が7点展示されていた。
昭和元年「風景」など亜鉛凸版の作品が4点、「給油所」など木版多色が3点だった
朝治は2千点もの美術品などを収集した、後年遺族が全てのコレクションを須坂市に寄付した。

畦地梅太郎昭和11年「伊予風景」10点を制作した。画集を30部出版したが、直ぐに売れたという。
〜画集が出来て金がいくらか入ったころ、母が患って亡くなった。郷里に帰ったときは、野辺の送りはすんでいた。
持ち帰った一冊の伊予風景の画集を仏前に供えた〜
                      『とぼとぼ歩いた道』より引用

梅太郎は山の版画家として山や山男を描いた。山男は自分をモチーフにしたそうでユニークである。
館内には梅太郎のアトリエが再現されていた。
「梅太郎だけの青」と題し、1940年から1983年までの作品49点が展示されていた。

梅太郎が少年の頃、船員だったことは知らなかった。外航船に乗っていたので山下亀三郎の山下汽船だろうか?
美術館に併設されている「井関邦三郎記念館」にも寄ったが、彼も船に縁があり、
昭和十年大阪商船・別府航路の「緑丸」で濃霧の中、大連汽船の船と衝突、
船は四分で沈んだが、暗夜の激浪を泳いで九死に一生を得たという。
三間という山間部の出身者が船に関係しているとは思いもよらなんだ。

法華津峠展望/絵葉書より)


(圏谷に立つ山男/絵葉書より)