トランパーの礎

先日、茅場町に用事があり我が国海運発展に尽力した方々の記念碑を散策した。
(河村瑞賢屋敷跡) 所在地 中央区新川1-8地域

 『トランパー』筆者の勤め先が東京中央区新川だった。平成8年大同海運の流れをくむジャパン近海が山下新日本近海と合併し「ナビックス近海」となりこの地に引っ越してきた。当時の社長に、この辺りは昔「河村瑞賢」という偉人が住んでいたと聞かされ我が国海運の先駆者であることを知った。
この碑には『江戸時代、この地域には幕府の御用商人として活躍していた河村瑞賢(1618〜1699)の屋敷がありました。瑞賢は、伊勢国の農家に生まれ、江戸に出て材木商人となりました。明暦3年(1657年)の江戸大火の際には、木曽の材木を買い占めて財をなし、その後も幕府や諸大名の土木建築を請負い莫大な資産を築きました。また、その財力を基に海運や治水など多くの事業を行いました。
 瑞賢の業績の中でもとくに重要なのは、奥州や出羽の幕領米を江戸へ廻漕する廻米航路を開拓して輸送経費・期間の削減に成功したことや、淀川をはじめとする諸川を修治して畿内の治水に尽力したことがあげられます。晩年にはその功績により旗本に列せられました。』とある。
当時の日本が内航大国になったのは、河村瑞賢が東北からの年貢米などを輸送する航路を開拓したことが大きく貢献している。
従来、奥州からの年貢米など利根川河口銚子で河川輸送に切り替え運河を経て江戸に運んでいたが、幕命により房総半島を廻り伊豆下田へ入り西風で江戸湾に入る「東廻り航路」を開いた。更に酒田港から海船で日本海沿岸を往き瀬戸内海に入り紀伊半島を迂回し下田から江戸の入る「西廻り航路」を確立した。貨物を遠くに大量に低コストで輸送する現在の「内航海運」の礎を築いた人である。
他にも全国各地で治水・灌漑・鉱山採掘・築港・開墾などの事業を展開した。まさにベンチャー精神旺盛な人物で、『トランパー』の主人公「山下亀三郎」も瑞賢の来し方に学んだのか、海運、石炭等採掘、築港など日本の基幹産業を興し大いに社会貢献した。

更に永代橋方面に向かうと橋のたもとに、
(船員教育発祥の地)の碑がある。
(永代橋たもとの桜とスカイツリー

題字は東京商船大学長・小山正一書とある。(昭和51年建立)
(碑文)
内務郷大久保利通は、明治政府の自立的な海運改革を進めるにあたり、船員教育の急務を提唱し、三菱会社長岩崎弥太郎に命じて、明治8年11月この地に商船学校を開設させた。当初の教育は、その頃隅田川口であり、海上交通の要衝でもあった永代橋下流水域に、成妙丸を係留して校舎とし全員を船内に起居させて行われたが、これが近代的船員教育の嚆矢となった。
爾来百年、ここに端を発した船員教育の成果は、我が国近代化の礎となった海運の発展に大きく貢献してきたが、その歴史的使命は幾変遷をへた今日、江東区越中島にある現東京商船大学に継承せられている。
 (注)東京商船大学は2003年に東京水産大学と合併して「東京海洋大学」となった。

江戸から明治になり新政府は欧米を視察し、工業近代化を急いだ。特に大久保利通は国を発展さすには外航海運を大きくしなければならないと、「日本郵船」「大阪商船」の社船事業の礎を築いた。それに続き、山下汽船、宇和島運輸など社外船と称すベンチャー企業が乱立した。
昔の外航船は日本の船でもオフィサーに外人が乗り込んでいた。日本人の船長など士官養成が急務と新政府は考えていたのであろう。
亀三郎が「トランパーの雄」となったのも明治の近代化を成し遂げた先人の功績で、世界の海に乗り出すことができたのである。

一句
海ゆかば敷島みゆる春航路