亀三郎郵船「新田丸」で演説

太平洋戦争開戦の前年、昭和15年は亀三郎74歳、晩年に差し掛かっており、男の花道を行くがごとしであった。2月にニューヨーク支店を設置、4月南太平洋航路開設した。
4月29日には 山下亀三郎社長は勲二等旭日重光章を受章している。会社の業績も頗る順調で、9月末の中間決算で利益金805万を揚げ年率14%の配当を実施した。
そんな折、亀三郎は日本郵船の新造船「新田丸」に乗船した。郵船は最新鋭の大型客船を3隻建造した。いずれも海軍の航空母艦に改造する計画であった。
「新田丸」は昭和15年3月23日竣工、東京港に回航されて皇族が見学、続いて横浜港に回航して政財界、文化人ら名士を乗せ、披露航海を行った。
亀三郎は4月17日「新田丸」船上で大演説をぶった。
 1万7千トンの構造機関は基よりすべての装飾が国産であることを賛美した。(これまでの客船の船内装飾はその多くを輸入品に頼り、西洋クラシック様式だった。しかし国粋主義台頭の世情から郵船は一等公室の船内装飾に「現代日本様式」を導入した)
 亀三郎は自分が船を持ちたいと思った動機を、明治29年に遡り、郵船の「土佐丸」が初めてロンドンに向け出港する姿を、横浜伊勢山から眺望した時の高揚した気持ちを感慨深げに話した。郵船の運航船は当時9万7千トンしか数えらなかったが、現在100万トンを超える船腹と相成ったと亀三郎は讃えたが、しかし亀三郎の演説はユニークだった。〜本席の御馳走が不足している、明石鯛のピンピンしたのが食卓に乗り、多少紅いものが見えないものかと思う、今後3隻の豪華船が出来て大きな成績を揚げられた暁には、皆様と共にご招待いただき大いにご馳走願いたい〜と祝宴を盛り上げた。
 その後、船中座談会が開かれたが、日本郵船嘱託の内田百間が肝煎りで文壇人を集め、梅原、辰野、久米正雄大仏次郎、川端、横光、吉屋信子、ほかに下村海南、大倉喜七郎、徳川義親、杉村楚人冠、宮城道雄、今井登志喜という錚々たるメンバーだった。
19日は、一等喫煙室で座談会、久米正雄司会で、今井登志喜、徳川義親、川端、横光、吉屋信子、辰野、内田、梅原、大倉喜七郎、大仏、大谷登(日本郵船社長)、小川清(船長)、山下亀三郎、里見、佐佐木、宮城道雄、下村海南、杉村楚人冠という面々で、亀三郎は大阪までの航海を、各界の名士と交流をする機会に恵まれたのである。
 亀三郎はこの年に、陸海軍に1千万円の寄付を行っているが、新田丸の建造費が約1千万円強、前年竣工の大阪商船、南米航路代表的客船「あるぜんちな丸」の船価も約1千万円である。今なら2−300億以上するのではないか?
だが、新田丸は海軍の航空母艦用に徴用され冲鷹(ちゅうよう)と船名が変わり18年12月トラック島からの帰路に米潜の雷撃で撃沈された。船齢3年9か月という短い命だった。 (参考:「沈みつ浮きつ」、Wikipedia