西国の伊達騒動 20

吉田藩紙騒動 (13) 歎願書が出て帰村する

 家老安藤の切腹は、一揆勢の知るところとなった。潔い死に一揆の闘争心が失われ、百姓の中には、「なんと天晴な武士」と感涙する者も現れた。

 十五日になって、やっと一揆のリーダーたちは、家老の自刃にショックを受け、鉾を収めることになった。

 全村の意見をまとめて、歎願書を宇和島藩の庄屋に提出した。宇和島藩の役人は頭取の吟味はしないと約束したが、リーダーは吟味を恐れ、歎願書は庄屋を介して役人に渡された。

「御願書覚」には十一条の要求が記されていた。要すれば、宇和島藩と同じ年貢の扱いにすることや、楮元銀や紙すき農家の問題、浦方の要望などで、百姓の生活が立ちいくようにすることである。

 十五日の昼、郡奉行横田茂右衛門は、急な報せがあり船で吉田へ戻った。夕刻七つ過ぎ(午後四時)吉田湾の鶴間に到着し、裏通りから黒門に入って書院へ駆け込んだ。

横田は、すぐに家老、中老、目付と密談に入ったが、お家の一大事に関することで、遅くまで評定が続いた。

 この日、安藤の切腹を聞いた宇和島藩の家老、櫻田数馬と松根図書が吉田陣屋に乗り込んできた。

 櫻田数馬は、「安藤義太夫のことは残念である。しかしそのお陰で百姓どもがやっと歎願書を出してきた。年貢を宇和島藩に上納したいというが、貴藩の存念を聞きたい」

 中老の郷六惣佐衛門は、老中の尾田を差し置いて、

「年貢を貴藩に納めるのであれば、吉田藩は成り立たない。百姓の言い分に一々応じていたのでは武家としての面目がなくなる」と声を荒げていった。

 すると櫻田数馬は、

「百姓どもが我が藩に入ったのは、ご法度の逃散ではないか。これがご公儀に知れると吉田藩は改易となろう」と厳しく叱るようにいった。

 さらに松根図書が、耳を疑うようなことを言った。

「貴殿らでは藩を安寧に存続さすことは出来ない。この事態を宗家として見過ごすことは、江戸に居られる村候公に申し訳が立たない。貴藩にご公儀の書状、御朱印状があるはずだが、それを我が藩で預かる。このままではお家取つぶしとなるであろう」というと、郷六はすごい形相となり、

「殿の出府中に御朱印状を渡すことは断じてない。強いてご所望であれば、槍先にてお渡し申そう」と大喝した。

 陣屋は険悪な雰囲気となったが、やがて櫻田は、

「藩をつぶしたくなければ、年貢のことを十分吟味して返答を頂きたい。百姓どもに申し聞かせて早く帰村させねばなるまい」といって宇和島に帰って行った。

 横田が宇和島に戻って来たのは、夜遅くだった。吉田での内談について作之進らに話があった。

 吉田藩としては、(年貢を吉田藩の蔵に納める時に、当分の間は宇和島藩の役人を立ち会わせる)と妥協案を示すが、宇和島藩へ上納することは、絶対に阻止するということであった。

 翌日、吉田藩の家老尾田は、宇和島に行って家老櫻田と会談した。年貢は宇和島藩監視のもとで吉田上納にしてもらいたいと頼み込んだ。

 櫻田は、部下の鈴木忠右衛門と徳弘弘人を河原に使わして、百姓のリーダーたちと歎願書、年貢の上納先について話すように指示をした。

早速、鈴木らは八幡河原へ急ぎ談判した。結局、百姓衆の願いをすべて聞くが、年貢は宇和島藩監視の上で吉田藩に上納することで話が付いた。

 吉田藩は郡奉行を招集し、十六日から、百姓どもを一斉に帰村させる準備をした。

 二月十六日朝六つ時、作之進は、郷六恵左衛門、横田茂右衛門に従って河原へ行った。すでに宇和島藩の役人徳弘弘人、目付須藤彈右衛門、代官二宮和右衛門、中見の鹿村覺左衛門が来ていた。河原では各村の庄屋が百姓どもを集合させていた。

 まず、宇和島藩の徳弘弘人が申し渡しを伝えた。

「その方どもの願いを、宇和島藩と吉田藩の家老らで協議のうえ決定したことを今から申し渡す。この上は、諸事をつつしみ、帰村には警固の者に無礼のないよう、家に帰った後は農業に精を出すようにいたせ」といって、さらに鹿村覺左衛門が十一条の裁決を読み上げた。

一、紙役所が相止められた去冬の楮元銀は、当春の漉出紙賣渡の代銀を以て返上申し付けられた。

一、楮売買の事は前々の通り申付けられた。

一、大豆銀上直段の事。

一、大豆乾欠指入の事。

一小物成納物升目の事。

一、青引納方掛目の事。

右四点の事も聞き届けられそれぞれ申し付けた。

一、津出(年貢納付)の節、逗留の事。

これも聞き届けられ左様の事が有ればその都度郡所へ申し出て、その訳を糾明する事。

一、紙方借銀古借年賦の事。五か年の間延引、その後相対なるべき事。

一、夫食米(出役の食料)の事。これは斟酌し申し付けるべき事。

一、為登米の事。これは吟味する事。

一、当分禁酒の事。これは山奥川筋の事。

 鹿村は、このように裁決を申し付けて、この書付を庄屋へ渡した。

 吉田藩の奉行横田は、申し渡しをもう一度読み聞かせ、「これは我が藩の家老にも相談しお聞き届け頂いた。そのことを心得て帰村し家業に精励すべし」と、藩の面子もあったのか、徳弘と同じことを百姓らに言い渡した。

 作之進は、(三間中・立間・喜佐方)(浦方)(山奥川筋)の三地区に分け、それぞれの庄屋たちに書付を渡した。

 この裁許書は百姓衆の歎願をすべて叶えたものだった。喜んだ百姓は、

「わしらの願い事はすべて聞いてもらった。早く村に帰ろうじゃないか」と叫ぶと、誰もが異議はないと、帰り支度を始めた。

 帰村に当たって、宇和島藩より五十名、吉田藩より十名の警固が付けられ、奉行やほかの役人も付き添い、この日のうちに全員が各村へ帰っていった。

 宇和島藩奉行・徳弘弘人も帰村を見届け、三間の務田村を通り吉田表にまわった。

夜に入り陣屋の屋敷に上がり、吉田藩のもてなしを受け、帰りは藩が用意した舟に乗って宇和島に帰って行った。

 横田ら一行と作之進は、三間郷を回り夜になってやっと吉田陣屋町に戻ってきた。

作之進は、まっすぐ家に帰らず中見の兵頭敬蔵を誘って、居酒屋「宮長」に寄った。

「いや~長かったのう御同輩、まあ一献いこう」と、二人はこの度の騒動を振りかえり深夜まで痛飲した。

 この日、百姓衆の出訴に付き、大洲藩新谷藩土佐藩より見舞の使者と書状が来ていた。この対応もぬかりなく、町宿にて一汁三菜の膳肴と酒を出した。一宿にて翌日昼弁当も用意し、正銀二両を礼金として渡した。

 江戸表への百姓衆帰村の御注進は、高木勝蔵、岩本丈之進が、二月十六日夜に出立した。

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宇和島城 (ブロガー撮影)