「病牀六尺」の冒頭に出てくる校長

 吉田中学時代の恩師渡部先生とは昨年50年ぶりに、昭和38年度卒の同級会で再会した。
退任後は「松山子規会」の幹部で子規の研究家であった。
中学では国語を教わっていたので執筆中の「トランパー」の原稿を先生に見てもらった。
その年の5月、愛媛新聞に先生の記事が載っていると同級生の井上論天から手紙が来た。
それは先生が子規会の例会で講演した記事だった。60年前に起こった宇高連絡船/紫雲丸の海難事故で
孫娘を失った祖父が、その無念を漢詩に込めた。その想いを先生が読み解くもので講演中の写真が掲載されていた。
ブロガ―は紫雲丸事故のことで関係者にも取材し、この話を内航業界紙に投稿した。

その後、渡部先生から「トランパー」に登場する吉田三傑の一人「清家吉次郎」の事でメールが来た。
俳人正岡子規が晩年に出した『病牀六尺』の冒頭に出てくる校長は清家吉次郎ではないか?」との問い合わせである。
子規研究家の中では校長の話など不明なところを究明しており、真実が分かれば特ダネになるそうだ。
ブロガーは早速、柏島に近い土佐清水出身の知人や、宇和島市の知人などに聞き取り調査をした。
しかし、別人ではないか、ということでその話はたち切れになっていた。
 ところが、今年の8月初めにメールが入り、清家吉次郎と正岡子規の結びつきが解った、といわれる。
それは、渡部先生の60年来の友人で大阪成蹊短大の名誉教授だった故・和田克司氏の講演資料に残っていた。
「明治35年5月に清家吉次郎が松山の海南新聞に投稿、それを東京で読んだ子規が感激して、随筆・病牀六尺の第一回を書いた」
という内容の遺稿を偶然見つけたというのである。
和田氏は国内外において子規研究の第一人者で、「松山子規会」のメンバーだった。
渡部先生、和田氏は子規が出た松山中学、今の松山東高の出身である。
昨年夏、和田氏は病で急逝されたが、ご遺族が遺品類の中でPCに保存していたファイルを先生に送ってくれたとのことだった。

115年前の投稿した人物は「せ、き生」の匿名で出したらしいが、それが吉次郎という確証は得られていない
しかし、それはほぼ間違いないだろう…。

一句
糸瓜忌や明治の夢の露しずく

(愛用のシルクハットを被る吉次郎)