吉田三傑「村井保固傳」を読む 11

商売人志願

明治11年秋、卒業に間もないころ、村井は『町人七分乞食』という題で演説した。
要するに、世人は士農工商で町人を最下級に於いているが、西洋では政治法律など社会の中心は商業である。今の商人は無知文盲で眼前の小利益ばかり考えている、吾々新教育を受けた青年は宜しく奮って商業界に入り、国家将来の発展に努力しよう!と云うもの。
彼が演壇を降りると福澤先生から『今の話は大出来だ』とヒドク褒められた。
しかし村井は、東京に出て明治政府の新政に接し、肩で風切る官人の威風を見て自分も官吏になろうと思っていたのであるが…
保固伝によると
薩摩出身の知織五觔と云ふ学生に『君の親父は役人だそうなが僕も卒業したら役人になる。僕は君より凄いやうだから、役人になつたら君を下役に使ってやる』スルト一方は冷然と『成程學校では君が僕より凄いか知らんが、社会に出たらそうは行かぬ。第一僕の伯父は維新前蛤御門の戰に禁裏守護で片腕を失つた。祖父は伏見の役や会津征伐に錦旗の下で奮闘した。西南役に討死した親戚もある。斯ういふ御奉公の功に依り、僕の親父は官吏として要路の地位に居る。然るに当時宇和島や吉田の腰拔け武士は、何もしなかつたぢやないか。それで今の政府に入って何が出来るものか。一體天下に事を成さうとするには血と熱が要る。君が伊豫から飛び出して來て官史の上層に納まらうなんて駄目だよ。實社会に出たら僕の方が父祖の御蔭で君より上になるのだ』と逆襲された。
考へて見るとそれには一理がある。觶里の父老は国家重大の時勢に、無関心で山の芋掘りに日を送つてゐたのだと気が附いては自分が容易く大官になることは六つかしいと反省される。併し一方には又今の日本は実力の世界である。因縁と情実に人間の眞の價値が無視されるとは怪しからん。祖先の功名が無能凡骨の子孫に及ぼして、今尚ほ要職を獨占するとは何事か。よし官界にばかり日は照らぬ。官界がそう云ふ閥で囲めて居るなら自分は別の方面で実力が物を云ふ世界を求めやう。現に福澤先生も何時かの演説に
『一国の繁榮は政治のみで起らない。西洋の先進国は何れも産業の発展を以て国家の隆昌を圖つて居る。近頃の學生が兎に角役人になりたがつて、他の職業を蔑視する傾向があるのは面白くない。今に於て官尊民卑の陋習を打破し封建時代の遺風を一掃せねばならぬ』と云はれた。
自分もーつ方向轉換をして実業界に入らう、輕い諦らめと共に今までの役人志願を一擲してしまつた。
この心境の変化が、『町人七分乞食』の演説になつたのである。

(養母光女の死)

明治10年の暮、国許の実父から養母の病気重態の電報が来た。取るものも取りあえず大急ぎで帰ったのが大晦日の暁方であった。
保固の勉強を妨げてはならぬと口止めしてあったが、帰って来た本人の顔を見ると一時不機嫌であったが、そこは親子の情で内心の嬉しさは包むに余るものがあった。それまでは里方の宮本で養生していたが保固が戻ったら自宅に帰ると云って西小路の宅へ引き揚げた。
保固伝には、
「村井は千々に心を碎き、どうしても今ー度回復せねばならぬと昼夜の別なく寢食を忘れて枕許に附き切り、服藥食事萬端の世話は申すに及ばず、撫でさすり汚れ物の始末まで一切人手を借らず毎朝附近の石場川に持つて行つて之を洗ひ自ら干すと云ふ健な気さに養母は手を合わさんばかり、人知れず感謝の涙をこぼすのであつた。この優さしい孝養振りに実家の両親は勿論、以前道後の遊蕩を冷評した人々も今更ら感に入つて褒めそやした。
それでも天命には抗し難く、二月三日遂に永き眠りに入つた。是れより先き養母は死期の遠からざるを知ると、枕邊に侍した村井に向かって、懇ろに介抱してくれた禮を述べ、『私が死んだ後迫善や供養のことをお前がしなくとも善いから中陰明けを待たず一日も早く上京して勉強して下さい。それが何よりの孝養であります。私は蔭ながらー心にお前の出世を祈つて居ります。それから私には何も善いこともないが、たまに有つたにしても決して決して人様に自慢らしく吹聽するものではありませんよ』としみじみ云ひ殘したものである。」とある。

(村井幼稚園の建設)
この養母の今はの際の遺言は、村井の一生を鞭撻し激勵して非常な力を添へたものである。されば後年大成した村井は亡き養母への追善に、昔の邸宅の跡へ村井幼稚園を設け自筆で『光の園』と書いた小碑を建ててある。実にこの幼稚園こそは理智と情操と陰徳を兼ね備へた母堂を不朽に記念する愛の殿堂として何時までも吉田の少年少女を薫育して行くのである。
村井幼稚園は位置も善く、田舍に珍しい完全な機構を備へて幼年子女の繁化に勉めて居る。特に園長の清家晋は温厚篤實、理想的の繁育家として許されて居る。斯ういふ人格者を戴く幼稚園も仕合せであるが、此人を見出した裏面に村井の暖かい情味を語る佳話がある。
大正十二年村井が歸觶して、吉田の松月で歓迎会が催された時のこと、散会となり村井が玄関に降り靴を履いている所へ、『私は芿家長九觔の倅で御座います』と自己紹介をした芿家の言に、『オー君が長九觔の子息であつたか、君にやる物がある』と口約柬を結び、帰京後、清家吉次郎を介して送つたのは、村井が三十年前、清家の父長九觔に宛てて認めた手紙の中に一字訂正を要するものあり、其儘になつて居った古手紙である。
薄暮人の顔もおぼろにかすむ際、突嗟に云ひ出でた子息に対し三十餘年前のことを忘れもせず、折角保存してあつた手紙を後から送り屈けた友誼と温情には、そぞろに人を泣かせるものがあつた。この芿家晋を見立て幼稚園長に聘した村井の計らひには、故人に對する芳情と適材適所の眼識と、両つながら世にも芽出たい傑作として傅唱された。

***村井の労働観***
病気煩悶の來るのも労働せぬ故なり。
病気煩悶を除くのも労働に依るの外なし。
病気煩悶の為め華厳の滝に行かずとも労働に行け
労働は凡ての苦を除く最上の妙藥なり。