吉田三傑「村井保固傳」を読む 9

東京遊学

既に東京遊学のお許しが出た。立つ鳥跡を濁さずとか、先づ松山に帰って名誉を回復すべく英学校に引きかし規定の課目を卒へて先輩や友人から送別会さえ開かれ、愈々東上の途に就くこととなつた。
去るに臨んで村井は県令岩村高俊を訪ひ、東京遊學のことを述べた。英學校の討論会や其他で面誠はあつたものの、別に言葉を交はしたことはない。『私は今直ぐ学費をお願いするのではありません。実は慶應義塾に入学の積りで相当の金は用意して居りますが、あの學校の學費や月々の食費其他がイクラ掛るものか、確かの所が判りません。折角這入っても万一中途で学費の続かぬようなことがあつては、残念ですから念の爲めをそういふ場合は、多少の補助を御願ひしたいのです』と打明けて語るその様子が、粗放一遍の書生と違ふ所がある。面白い奴だと好奇的に閃いた一殺那、『宜しい何れ其中上京するからあちらで逢はふ』とある。先づ手應へはあつたやうだ。
斯ういふ經緯で松山遊學は波瀾の多い二年間であつたが、後年村井は当時を振り返つて『あれは僕に取って一種のヴァクシネーションと云ふか、遊蕩の免疫を受けたやうなものだ。あの時両親や養母の胸を痛めたみじめさを思ふと、しみじみ骨に應へて翻然悔悟の決心を固めることになつた。詰り轉禍爲福で松山の失敗は善い繁訓になつたよ』と云ふのである。
時は明治10年2月、九州の一角に燻ぶりかけた西南役を餘所に、村井は上京して宇和島の不棄学校以來、久しく憧れてゐた慶應義塾に入学した。それも草間校長の紹介で福澤先生に面会し、從來の學歴に依る特別の計らひで二年級に編入された。
折角青雲の希望と抱負を以て入学したのであるが、其頃の慶應義塾は規模と云ひ設備と云い貧弱なものである。第一に気に食わぬは學生の気風が柔弱で、気概といふものが更に無い。或日演説会が開かれて有志の學生が、思い思いの意見を述べる際、村井も平生の不滿を漏らすは此の時と演壇に立つて、『田舎土産』の題の下に滔々と気焔を上げ、盛んに學生の無気力を攻撃した。多数の學生は怒つて撲りにでも來るかと覚悟して居ったところ、案外にも列席の繁師や學生の共嗚する所となり、田舎出の一書生村井は是より大いに珍重され、犬養毅尾崎行雄、本山彦一、伊藤欽亮など何れも後年各方面に大成した連中と親交を結ぶこととなりお互いに胸襟を開いて天下国家を論じ合うやうになつた。
当時の寄宿舎は一種の梁山泊である。昭和の今日では想像も及ばぬ別世界の空気が漂うて居つた。村井が豆腐を買って来て洗面所から金盥を持出し、火鉢に掛けて湯豆腐を作り、机の下に忍ばせてある紱利の燗をして獨酌にチビリチビリとやつて居る。伊藤欽亮入って來る。マァ一杯やらんか。金はなし遊びには行けず、獨酌で憂さを晴らして居る所ぢやと云う。伊藤も早速相手になつて共に飮む中、金なら僕が少し持つて居る一緒に出掛けやうと誘われ、近い品川に遊ぶ。犬養毅、岩橋謹次觔等も時には連れだつて悪友仲間に入る。村井と犬養は何時しか仲居を取込み買収してしまつた。お陰で時に無錢遊興もすれば、お金の催促にも手加減をしてくれるので両人一層得意になる。トゥトゥ二人は隔離の立味で塾の寄宿舎の別寮に遷された。
斯ういふことで二人の間に共鳴する所があつたと見え、後年犬養から村井に宛てた手紙に、箇中の消息を伝えて面白いものがある。

前略先日は大失敬致候。其後早速御出発とぞんじ候てお尋ね不申候處少し御延滯被成候のよし今度の御手紙にて承知いたし候。嘸かし風流なる處にて御樂被成候事と存候小生出発の事御尋被遺候へども未確定はいたし居不申、左れども先日申上候如本月季は大抵出発と略決いたし申候。何卒ソレまでには尚一酌いたしたきものにこそ。西京は雛妓を以て尤も面白き朋とす可し。是は僕が経歴上より申事にて決して空論にあらず勇菊、お照、小お久、大お久、小榮等の如き處先づ上等なり此中にて御撰擇可然候。右は御案内まで不ー
五日       木堂 酔生
巨口盟兄
座右

其頃でも唯一人芿節を守つて動かなかつたのは尾崎である。『彼奴は頑固だ』と何時も敬遠されて遊び黨の外に孤立して居った。