吉田三傑「村井保固傳」を読む 8

道後へ脱線
適々草間校長は新聞の寄稿が祟って禁獄處分に附せられ、校長代理として三輪肅齋と云ふ青年が來た。村井には助教として月手当10円を支給される。国許から送つて來る学資と合わせて懐中は温くなり、心に弛みを生じたところへ独身の三輪校長と意気投合して、二人は牒し合わせ秘かに道後の遊廓に遊んだ。こが病み附きで次第に深入りした揚句、後には公然登楼するやうになり、果ては村井家の命の綱にもひとしい公債まで、売飛ばして遊落に人れ上げてしまった。
斯ういふ不行跡の世間に知れぬ筈がない。吉田に伝わって実父周詢は火のやうな立腹である。手紙で帰郷を促しても帰らない。遂に実兄良平を松山へ差し向けた。流石の村井も今は止むを得ず悄然として兄と共に家路に着いた。吉田中番所まで来て、兄は一応実家で一晩泊まり明朝村井家に詫び行けというが、村井はイヤ私の内は養家である、と言い争い結局二人は左右に分かれた。
歸つて見ると燈火さへ點けてない家に、養母が一人黙然と打沈んで居る。不機嫌は覚悟の前ながら、今更の如く胸を打たれる思ひで差し向かいに座つた。暫くたつて口を開いた養母が『お前、あの公債はどうしました』と訊かれる。『お母さんあれはネ 羽根が生えて飛んでしまいましたよ』と意外の言葉に流石の義母も開いた口が塞がらず、二の句も出ないまま、陰欝な気持ちで其夜二人は寝に就いた。
朝になつて村井は養母の前に容を正し、『お母さんお金は使つてしまつて申訳がありません、併しお蔭で大分学問も出來ましたから、一つ東京に出て今度の不名誉を回復したいと思ひます』と実意を込めた話に、養母の心は幾分解けかかって來た。實父も一時は養家に相濟まぬ、打果してしまふとまで立腹したもの、今は只菅ら神妙にして居る本人の顔を見ると格別小言も云へなかつた。
斯ういふ場合に一番冷めたいのは浮世の風である。村井の三やんは大金を道樂に使つてしまつたそうと悪事千里と宣伝される。これには村井もほとほと閉口した。何んとか発奮勉強して名誉を回復し、養母を安心させたいものだ。それには東京に遊学して他日の大成を期する外ないと、堅く決心の臍を固めるのであつた。
併し実家の父兄は松山でさへあの道楽した者が、此上手放しで廣い東京へ出したら、ドンナ不都合を働くか知れたものではない。のみならず養家の金を養子が,自分の事にばかり使うては、先祖に對して相濟まぬと以ての外の剣幕である。
これに就いて村井は『封建の昔は家名を襲いで家業を守るのが、養子の本分であつた。今日は時勢が変わって、第一守つて行くべき家業と云ふものが定つてゐない。徒らに田命に燻ぶつて居るよりも郷里を出て立身出世をして家名を揚げるのが、家にも御國にも一番大切な御奉公である』と云ふ。
こうして実の親子が毎日議論するのを聞いて居る中、養母は、『あれほど熱心に望んで居ることでもあり、本人の望みにまかせてやりたいだけやらせ見ては何うでせう』と云はれる。それでも実父は尚讓らなかつたが、結局村井が『人間は自分で善いと思うたことは、如何なる障碍を押しのけても実行したいものです。私もこれほど思い詰めて乗り出す以上、萬一失敗して落ちぶれるとか間違って野垂れ死にするやうなことがあつても、決して女々しく悔やんだり泣き言は云いません。其時には屹度ニッコリ笑うて死にますから』と決心の程を述べたので至誠は天にも通じる習い、況して肉親の父が動かぬ道理はない。遂に快く承諾してくれた。

(出典の村井保固傳をスキャン、旧字と当用漢字の混同あり)