吉田三傑「村井保固傳」を読む 7

英語勉強に英学校入学

不棄英学校には東京の慶応義塾出身である中上川彦次觔が、75円の月給を取り新知誠の先生として同々と威容を張つて居る。若い中上川は覇気に富み颯爽たる風貌からしてそぞろに年少子弟の大志を唆るものがある。
『自分は何時までも地方の學校繁師などをしている積りはない。洋行する學費をこしらへに來ているのだ諸君も宜しく東京に出て慶応義塾の福澤先生に就いて學び玉へ』と説き聞かされる月給5円を志している村井の耳には霹靂の如く響いて濶然夜が明けた思いがされる。
此處に2年間勉強する中、神山縣は廃せられて愛媛縣となり、不棄英学校も廃止され後の慶大教授瀧本誠一博士、陸軍中將兵頭雅譽等の先輩を始め、村井も思い思いに他へ轉學の途を求めることになつた。
当時全国に5つあった英語學校の一つが広島に在り、養母を説得して明治8年22歳の春、松山に出て広島に赴いた。其処には立派な英語と会話を教えるために西洋人の先生もいた。生徒は12、3歳の少年が多数であったが自分は規則により初級に編入された.

教室を見ると西洋人繁師がエス、サァ(yes sir)と云ふ。生徒が続いてエス、サァと揃って声を上げる。繰返して同じことを続けているところは、丸で土方が仕事の合図に掛け声をするようなものだ。宇和島では既にパーレーの万国史まで習ってきた自分である。今更子供連と一緒に土方の真似でもあるまいと馬鹿らしくなつた。嫌や気かさすと決斷も早い。たまたま松山に慶應義塾から草間時福先生が見へて、新に英學校が出来たと聞き倉皇広島を辞して帰国した。
松山へ来るなり早速草間校長に会って希望を述べると、大いに同情して入学を許された上に、既に宇和島で2年も勉強して居るから、此處では上等生となり時には下級生に繁へることもあり、村井先生村井先生と尊敬せられた。
草間校長は演説や文章がうまいので東京の朝野新聞に役書してその方面にも評判がよい。それから縣の学務課長内藤素行、後の俳人鳴雪が時々學校に來て、学生を集め討論会をさせる。村井もミルの代議政體論などを半かぢりで、盛んに討論の席に立つのが頗る面白い。更に權令岩村高俊は日本に於ける民権の発祥地とも云ふべき土佐出身だけに、新らしい議論を好み生徒を二組に分けて討論させることもある。
一度同じ吉田出身で村井より年下ではあるが、頭も良し人一倍読書もする上に、校内で議論家と云われた豊島岩三郎と村井が各々一方の旗頭となり討論をした。内藤学務課長まで仲間に入り、活気横溢の場面を呈したものである。