吉田三傑「村井保固傳」を読む 6

村井家へ養子
その頃、三治は同藩の村井林太夫の未亡人光女の所へ養子にと相談があつた。先方は相当家計の餘裕もあり三治に学問勉強をせることも出來ると云ふ。
それならと本人も異存がない。未亡人の姪との縁談話には条件を付けないということで、養子縁組がまとまったのは明治2年8月で、翌明治3年正月早々名を保固と改め、17歳で村井家の戸主となつた。
この養母は村井家に嫁いで子がなかつた。その中、夫には死別する。自分も病身であるから40歳の若さで既に家政一切を養子保固に任せ、余り干渉がましいことをしない。
養家の住居も古く、煤けている襖に『心潔』『身清』と1枚に2字づつ大書して新らしく貼り換へた。壁は自分の手に負えぬから人に褚んでこれを塗替え、表側には新らしく杉皮を取り附けるなど、見違えるほど清々と綺麗になつた。今は母一人子一人の水入らずで睦まじく暮らして行く朝夕は平和な幸福に浸って居った。
小藩ながら三万石の切り盛りをして行く重役の権威は高い。当番の日になると村井は重役の御用箱を持ってお供をなし、終日溜まり控へて居るのである。其には友人の山内豊光や若党連の集まりで議論の気焔をあげ、暇には外史、史記を取り出して勉強した。
其のうち廃藩となり吉田は神山縣に属することとなり、村井家の17表扶持7年分を、時の米相場に換算して金祿公債が交附されると共に、今は無職のお拂ひ箱になつた。
俄に纏まった金を懐にした暖かみに、前後の辨へもなく紅燈の巷に出入りして、湯水の如く浪費する向きもある。
お組仲問の連中では從兄宮川は巡査になる。村井が一生親友として渝らなかつた武田信民は米屋と早変わりした。
村井自身養母相談し、今更百姓もできず差し向き2年も勉強したら學校の繁師にはなれる。一ヶ月5円の俸給なら二人の衣食に差し支えないであらうと先づそれにきめた。
早速吉田の學校時観堂に通うこととなり、朝は剣道で心身を練り、それから日本外史史記列傅などを勉強した。2年後になると飜譯の物理学や地理学も加はるが、大體は漢學が主で上に進むと左傅もある。
その頃、神山県の學務委員で、後に東京に出て第一銀行の役員になつた西園寺公成が學事視察に來た。丁度左傳の講義中であつたが、『相變らず古いものをやつて居る。モゥそんなものは役に立たぬぞ。シッカリ飜譯書を讀んで文明の新學問をせぬと駄目だ』と云ふ。強い刺激を感じた村井は新刊の飜譯書を讀んで見るが判らぬ事が多い、先生に質問しても要領を得ない。この上は原書を読んで自分が直接新学問を究める外ないと宇和島の不棄英学校へ入学することになつた。