吉田三傑「村井保固傳」を読む 13

森村市左衛門の興した「森村組」は市左衛門一人の力で大成したものではない。同志の大倉、広瀬、村井の三傑がブレーンとして左右に控えていたからである。
大倉孫兵衛は伊勢松坂の出で、市左衛門の妹を娶った。大倉は本業の絵草紙や書店を身内に任せ、義兄森村の対米貿易に尽力した。
広瀬実栄は、元土佐藩江戸留守居役だった。広瀬家は4代目市左衛門と意気相投する縁故があった。実栄は明治維新で前途を嘱望されていたが、征韓論の破裂で西郷南洲が辞職した際、先輩の後藤板垣らとともに勇退した。親交のある森村が外国貿易に従事するや、広瀬に協力を願い神戸支店長に抜擢した。
後年大物となる伊予吉田出身の法華津孝治なども村井の紹介で、明治18年森村組に入社し広瀬の下で勤めた。
兎に角、市左衛門はこれらで日本の陣容を固めたが、案じられるのは出先の米国で、実弟豊が采配を揮っているが手不足である。誰か片腕となって信頼されるものが欲しい。
このギャップを充たすべく打って付けの適才が登場した、それが本編の主人公村井保固その人である。

村井保固の登場

村井の森村組入社が決まり、森村に同行し京阪方面に商品仕入れに行くことになった。
早速福澤先生に報告し、郷里の頑固な父を説得するため、仔細を話して一通の手紙を頼んだ。門下生の為には何から何まで面倒見のいい先生である、早速書簡を認めてくれた。
この手紙さえあれば郷里の方の反対封じは大丈夫と、森村と横浜から新潟丸に乗って神戸に向かった。
1か月足らずの旅行だったが村井は森村から商売のイロハを教わった。最初のレッスンで得る所が多く、これは両人相互のメンタルテストに役立ち、一生水魚の機縁をなしたものだった。
村井は要務を終わり郷里吉田に帰って来た。慶応義塾を卒業し青年の登龍門と云われた洋行が決まっており意気揚々の帰省であった。只、親しく養母に逢って今日の喜びを分かつことが出来ぬのが傷心の極みで、空しく墓前にさびしい報告をしたのである。
両親初め郷里の父老も心より歓迎した。福澤大先生のお手紙を拝見し誰も二の句を申さない。親類一統共に前途を祝福し門出を送った。
保固伝によると、
松山では草間校長や旧知の人々が、盛大な送別会を開いて村井の行を壮にした席上内藤素行は左の送別辭を朗読した。
書生相聚つて話す誰か洋行々々と云つて之を希はざらん。然れども既に洋行して洋行の益を得ずんば亦何んぞ洋行せざるものと異ならんや。從來我友の洋行せしもの亦有り、或は官を帶びて洋行し或は學を修めて洋行す。然れども歸るに及んで我目を刮して之を視るに、未だ果してその洋行せしや否やを信ずる能はず。今は則ち復た村井君の洋行するあり。我恐くは君の洋行亦前人の洋行に同じからんことを。然りと雖も我窃に聞く君の洋行は某会社の事に参与し、我貨物を直に彼に販売する者なりと、然らば則ち其撰固より官と學とに異なれば其成就する所我曷んぞ前例を以て之を測度するを得んや。曰く我國威の未だ全く立たざるは我財力の未だ全く厚からざるに因り、我財力の未だ全く厚からざるは我貿易法の未だ全く拡張せざるに因るとは、君が曾て慷慨せし所なるを知る。曰く忍耐の力に乏しく詐僞の術を務め苟も小利を得て大益を遣るるは東洋商人の常なりとは、亦君が曾て嘆息せし所なるを知る。嗚叮行け村井君、君が洋行は方さに其の曾て慨嘆せし所を救ひ得るの任に当れり。若し此にして救ひ得ることあらんか、君が洋行の益たる豈啻に君の一身に止まるのみならんや。卽ち延て我曹三千五百万人に及ばんとす勉旃、茲に送餞の筵に與かるを以て聊か此言を以て君の洋行を祝す。
明治12年6月24日               内藤素行

と、記されているが、何と素行の言葉に「洋行」が13回も登場する。皆が村井の洋行に寄せる期待がひしひしと伝わる。

東京に帰った村井は新肴町の店に勤めた。米国に積出す商品の荷造りから始まった。他の小僧たちと一緒に終日藁まみれになって箱詰めをする。扱うものは貧弱な商品で高が知れている、月6円の御手当を頂戴しいつまで辛抱したら善いのか聊か失望の感が湧いてきた。然し一旦乗り込んだ以上遣れるところまで遣ってみると、昔、大信寺の上人が「時」を見よ「時」を待てと云われた教訓はここだと、漸く不平の虫をかみ殺した。
ある日、慶應の学友犬養、尾崎が新肴町に来て『ナント是が外国貿易か』と呆気にとられた。爾来友人仲間は『可哀想に村井は土方に落ちぶれた』と一時専ら評判になった。
8月、尾崎が福澤先生の紹介で新潟新聞に赴任することになり、烏森で送別会があり村井は楽しみに出掛けた。50名の青年同士の集まりで談論風発、村井は塾生当事に返った思いで痛飲した。帰路酩酊の余り土橋辺りで倒れ前後不覚、巡査に新肴町まで送ってもらった。謹厳な森村は知ってか知らずか別段の事もなく済んだという。