村井保固伝  財界巨頭伝:立志奮闘 3

福澤先生に就職依頼 尚、氏は先生に向かって『我々は舊式の商人を撲滅して、其れに取って代はらなければならぬ。それにしては、我々は算盤を習わねばならぬ。我々が和算が出来ないやうでは、第一お店の小僧に打ち勝てない』かう言って、気焔を揚げると、先生は其れは面白いと言って早速和算の教師を雇ってくれられた。
生徒は十四五人であったが、上げましては何千何百何十円何十銭と言ったやうに、珠を弾いては、一所懸命に稽古した。 かうして一年ほど経過し、明治十一年の十二月の暮に、いよいよ慶応義塾を卒業した。
卒業すると同時に、金はなくなったので、何かやらなければならぬ。 其処で翌十二年の春に、福澤先生を訪ねて、自分は本当に小僧からやり上げたいと思うが、 誰かありますまいかと言って頼んで観た。其時分慶応の卒業生で、偶々実業界に入る人は、皆大会社を望んで、本当に天秤棒を担いでやろうというような人は、殆んどなかった時代であった。
其のうちに、先生の所から又呼びに来られた。そうして『丁度お前の理想通りの所がある。其れは森村市左衛門の弟の豊という内の卒業生の店だ。モウ米国に十年ばかり行って居る……』と言って詳しく説明された。

森村翁貿易従事の動機 其森村市左衛門(森村男爵の先代)さんも福澤先生とは心易い間柄で、森村氏が先生の藩主たる奥平家の中津の用達をやり、且ては舶来品を扱って居たところから、自然先生と懇意になって居った。其れで森村さんが、何故貿易を始めたかと言えば、森村さんは御維新の時、米国で南北戦争の際に使用した古いケーベル銃などを外國商館から買って、諸大名に納めて居つた 。さうした関係から会津戦争の時など、自分もついて行かれた位であった。
かうして森村さんは、横濱の商館へ金を拂いに行かれた。共頃は高価な大きな蒸汽船なども 、外国から買はれたので 、その代金として多額の小判や二朱金が、ドンドン外国商館の手に支払られた。さうして其等の金銀色燦爛たる日本の宝が、外国商館に堆高く積まれ、手では中々計算が出来ないので、機械で計算し、ドンドンこれを本国に輸送している光景を眺めて、森村さんは『一国の大切なカーレンシーをこう沢山に無残々々外國に持つて行かれては、國家の為に洵に深憂に堪えない。何とかして之を取り返へさなければならぬ。其れには貿易をする外はない。』と、かう深く感激され奮然外国貿易の為めに一生涯を捧ぐべく堅くも決心されたのであった。
当事森村さんは御自分が三十二歳にもなつて居られたので、その時他へ奉公に出て居った弟の豊さんに教育を仕込もうと考えられた。そうしてお父さんに向かって決心の次第を語られ『私は年も取って居ますし、其れに忙しくもありますから、豊を奉公先から呼んで学校に入れたいと思いますが。……』と相談すると、お父さんも直ぐ賛成され、豊さんも至極同感であったので慶応義塾に入學することとなった。

英語が出来ないで叱らる 豊さんは七年間慶應に学んで二十二歳の時、目出度く卒業された。さうして明治九年ヒラデルヒャの博覧会の開かれた年に、米国に渡航された。新井領一郎氏も一所に行かれた。 さうして米国ではポープキフシのビジネス・カレッジに入學された。 当時商人の子供には、 学問は入らぬなどと言われた時代に、さう云ふ風に学問をさせられたのは、実に森村さんを以って嚆矢(こうし)とする。 かうして森村さんは、 明治十年頃に小さな店を紐育に開かれた。其れから一年経ってから、人が入用だといふので、福澤先生の所へ斡旋方を依頼してきた譯である。
氏は福澤先生から森村さんの人物を聞いて『森村さんこそ、俺れの理想通りの店だ。あの人は将来発展する 』かう言って、 氏は獨り定めに定めて、得意になって居ると、 先生は 『しかし條件がある。其れは英語と簿記の出来る人と云ふことだ』と言はれたので、氏は『先生私はその英語のコムヴァセーションは、少しも出米ません』と御答へすると、先生から酷く叱られた。『お前はなまいきだ。商賣をやるには會話が大切だ。會話が出来ないで、どうして西洋人と商売取引が出来るか、ソンなことではヒヂネスをやらうなどはダメだ 』と言って赤くなつて叱られた。
『先生困りましたな』と言ふと、先生は『今の書生は口でこそ偉らさうなことを言ふけれども、実際はなつてゐない・・・・・』と言つて、散々油をしぼられたので、汲々にして帰ってしまった。その頃三菱の商業高校では英語と簿記とをミッチリ教へて居たので、其の卒業生は其の点で秀いでて居った。森村さんの希望には、其の学校の卒業生の方が寧ろ間に合ふやうだ 。
 (つづく)