吉田三傑「村井保固傳」を読む 12

森村組入り
明治11年12月27日付の卒業証書を授与され、茲に村井の学生生活は終わりを告げた。
村井保固が政治家、官僚への道を止めて実業家になろうと、森村組へ入った事情、経緯等は、ブログ本「吉田三傑2017」で詳しく書いたので、省略する。

森村市左衛門
森村の先祖は遠州森村で江戸に出て、旗本お出入りの武具馬具商となった。
村井を雇ったのは、6代目男爵・森村市左衛門である。
市左衛門の義父5代目は、4代目の娘松女の養子になった勇造という男。彼は商家に奉公し独立して袋物商を営み、その仕事ぶり、生活態度を気に入った4代目が三顧の礼はおろか幾たびも勇造宅を訪れ養子を勧めた。
母松女は19歳の時結婚して市左衛門を産み、幼児7歳の頃、29歳の妙齢で亡くなった。
この人は、平生深く仏教を信じ、毎夜日課として観音普門品を読誦し、然る後就寝するを例とした。
彼女の筆になる寫本が男爵家に家宝として遺されている。『東かがみ』という本で、当時町家の娘とは余程縁の遠いもので、正親町中山の両卿が寛政5年勅使として関東に下向され、太上天皇の尊號問題に就き老中筆頭松平越中守を始め、大官連相手に幕府の専横を憤る余り、朝家の爲め万丈の気を吐いた記録である。
この寫本の後に先代男爵が幼にして別れた母の面影を偲び、
『前略』母の記念とするもの此一冊のみ。読む度に面語教諭を請る思いあり。
明治12年9月2日   銀座楼上に於いて記す
              男 市太郎 恭慶
と後書きして永く子孫に珍襲の意を残している。
***
村井保固傳は
安政の大地震」「開国と新空気の吸収」「遣米使節とその準備」「様式馬具と軍需品調達」
「外国貿易と豊サンの初渡米」と続き、森村市左衛門の立身傳が綴られている。
6代目市左衛門は一介武具馬具商人から時勢に乗って外国商品を扱うことになったが、為替相場の現状を見て外国貿易の必要性に開眼した。
彼はついに対米貿易を決心し15歳年下の異母弟、豊をこの仕事に抜擢し早速慶応義塾に入れて福澤先生の下で準備教育を受けさせた。
かくして明治9年3月10日米船オセアニック号でアメリカに向け、森村豊ほか数名が大志を抱いて洋行の途に上った。ニューヨークに着いた豊は、ポーキプシーの商業学校に入り3か月で卒業、ニューヨーク市第6街238番に小さな商店を開いた。森村ブラザーズの船出である。
明治の初年海外の事情に通じない開国草創の時代に初めての事業に着手した森村市左衛門の勇気、ベンチャー精神は驚嘆の外はない。


***村井の感想録***
勤労の中に真の快楽あり。金銭はその楽しみを取った粕であり副産物である。
人よりの報酬を思わずして働け、施せ、根限り人のために尽くせ。さらば神よりの報酬は人の与えるより遥かに大なり。然してこれを待ち設けてはならぬ。