村井保固伝  財界巨頭伝:立志奮闘 6

給料よりは利益配分
紐育の店で三年間やって居るうちに、森村市左衛門さんが、明治十五年に大博覧會が、仏国巴里に開催さるると言うので、豊さんと一所に見物に行って、紐育の店に帰って来られた。 
さうして豊さんの居らるる前で、氏に向つて『給料を上げやう上げやうと言っても。取ってくれないがモウ仕事も分ったであらうから、取ってもよいではないか?』と言われるので、氏は『モウ入ってから三年になりますから少しは分かりましたので、幾分はお役にたつやうになったと想われますが、私は女房は無し、金は多く入りません。私には希望があります。私は給料は入りませんが、一所懸命に働いて、其仕舞には、商賣の成績の如何に依つて、プロポーションを貰らうやうにしたい――私は給料は欲しくありません。自分の働きで、利益を取りたいのです』と答へたのであった。
森村さんは、氏の申出でを早速快諾せられたが、氏は一生涯の内にサラリーと言ふものは、貰ったことがない。森村組に入った最初の三年の間は、給料と言ふよりは、寧ろ手当であって、其頃は氏が未だ役にたたず、給料を貰らう資格がなかったから、謂はゞ食料として毎月借りたやうなものである。人間は給料を目当てに働くやうでは、本当の働きは出来ない。使われ根性では溌剌たる活きた働きは望まれない。利益分配と云ふことになれば、自然使はれ根性を離れ、如何にもして、店の利益を挙げなければならぬのであるから、其虚に重大な責任を感じ、真剣な一心不乱な活動が出来ることになるからである。

商業の神様に御禮かうしてやつて居るうちに、店の利益もダンダン出てきて、儲けのあった年には、氏も其利益配分に預かったので、森村さんに向つて『有難うー』と禮を言ふと、森村さんは言下に『イヤ、私は貴下方から御禮を受ける資格はない。それを受ける資格のあるものは、天だから皆で一所に天――商賣の神様に向つて、御禮を言はふではないか』と言われ、森村さん始め、利益配分に預かる社員達と一所に異口同音に天に向つて有難う御座いますと、御禮を述べたことがあった。
かうして氏は森村さんと一所に、何十年の間其の仕事をやり、最初の十年位は、毎晩十時ごろまで夜なべをしたが、其何十年と云ふ永い月日の間、実に愉快に仕事をした。
何しろ、森村さんは氏を信用して、総て米國に於ける店の仕事を任され、氏の仕事のやり易いやうに仕向けてくれられた。其れで氏は明治十二年に米國渡航した際に、氏の實印を御預けした切りで、森村さんが死なれた今日では、令息の開作さんに御預けして居るやうな有様である。森村さんと氏との間柄は、さうしたやうなお互いに心から信じあった仲であったので、永年の間實に気持ちよく働いたのであった。

人と商品との選擇
氏は過去五十年間米國で商賣したが、幸に良好な成績を挙げることの出来たのは畢竟人と商品との選擇に於て、誤りがなかったからである。
又商品にしても、其選擇を厳密にした為に、米國では信用を受け、有名なマーシャルフィルド百貨店其の他では、森村組の商品は無検査で取り扱って居る。
或る日、氏がワナメーカー百貨店に行ったことがある。すると、其処に居った売子の女が氏に向かって『森村組の商品だけは、無検査で通つて居るから、ラッキーな店だ』と言った。氏は売子からラッキ―ハウスだと言はれて、こりや油断がならぬと酷く感じた。
かうしたことが動機になって、名古屋の陶器製造所なども創立せらるることになった。如何に誠実に商売をして居つても、製造元で、手を抜いた粗製品を出せば、之を取扱った森村組の信用が、自然堕ちることになるからである。森村組の信用を維持するには、遡って其取扱つて居る商品の製造をも、自分の手でやらねば安心が出来ない。かう云う趣意から名古屋で陶器製造所を設け、多くの金と歳月を費やし、幾多の犠牲を払って、漸く米国で信用さるるような製品を提供するまでに至ったのである。さうして其は全く奉仕すると云ふ純真な考えから湧いたのであった。