村井保固伝  財界巨頭伝:立志奮闘 4

森村翁の求むるは店の宝氏は先生から叱られて、成程これでは可かぬ。改めなければならぬと、翻然として悟ったものの、来て偖てこの儘空しく引き下がって、如何にも残念である。折角のチャンスを無残々々失ふのは、如何にも遺憾千寓だ何んとか妙法がないかと思って、三日三夜と云うものは寝られなかった。
三日程経つてから先生の所へ行った。すると、先生は『お前は何しに来たか』と言つて大不機嫌である。
『先生、今日は大議論をしにやつて来ました。私は此の間先生に叱られて残念に思ひました。さうして其際は閉口しましたが、しかし善く善く考へて見ましたが、閉口すべきではないと思ひました。森村さんが言はるるコムヴァセーションや、ブックキーピング位なら、私は行きたくないです。森村さんの本当に欲しいのは、片腕になつて働くやうな人に相違ないです。英語や簿記位なら六ヶ月か一年もやれば出来ます。ソんなものは何者でも出来ます。森村さんは何者にも出来ない店の宝になるやうな人を求めて居らるるのでせう。森村さんにl つ話して見てくれませんか?』と、かう氏が臆面もなく言ふと、先生は『其りや面白い』と言って、御機嫌が直つた。さうして森村さんに話して見ようと承諾され、その結果いよいよ、そのころ頃銀座にあった、森村さんの店で、森村さんと会見することとなった。

給料は入りません
かうして氏は森村市左衛門さんと、銀座の店で面会することとなった。其時分森村さんの貿易店は、京橋の新肴町にあり、銀座の店は洋服店で、森村さんは其二階に住んで居られたのであった。
面会すると、 森村さんは丁寧に挨拶された。さうして『私の店は錢がないから、店員の人に多く給料を上げることが出来ない』と言って、給料の事を心配して居られた。 其頃慶応の卒業生で教師にでもなれば、 六七十円の給料は貰えたのであった。 さうして卒業生で、 商人の店に行くやうな人は殆んど一人もなかった。
氏は森村さんに向つて『私は教帥や、新聞記者になるのは餘り好みません。商人になりたいのです。私は妻はありませんから金は少しも入りません。普通なら私の方から授業料を出さねばならぬのですが――何しろ、一年半位は少しも役にたちますまいから、邪魔になつて、金を貰うと去ふ理屈はありません。給料は入りません。食料だけあれば結講です。』かう言つたのであった。さうして森村さんから、独身者だから新肴町の二階に寄宿して居れば、食料は七円位あればよいと言ふことを聞いて、更に森村さんに、『私は貧乏ですから。其れだけは毎月拝借したいものです』と言ふと、森村さんは『よろしい。明後日上方へ仕入れに行かう』と、言われた。

慶應卒業の身で荷造りかうして、森村さんと一所に横濱から三等汽船に乗つて、出発し神戸大阪方面へ仕入に行つたが、その間に於て氏は森村さんに試験されたのであらう。其れは明治十二年の五月で、其時森村さんは四十二歳、氏は二十六歳であった。
氏が慶應義塾を卒業した時は、心中に誇りを持つて居たものであったが、森村組に入つてみると、如何にも取扱って居る商品が貧弱であり――紙の懸物とか、粗末な瀬戸物と云ったやうな貧弱なもので、こんな物で儲けた所で仕様がない。こんな事で、本当の仕事が出来るだらうかと、不安の念を生じ、予想が裏切られたやうに想ったので、厭やな氣持ちになった。
けれども、氏は其の瞬間に翻然として其れでは可かぬ、無我夢中になつて、何でも忘れて仕事をせねばならぬと悟ったので、進んで商品の荷造をしたり、庭の掃除をしたり、夏の夕方などは水を打ったりなどして、骨身を惜まず働いた。
其時分の書生は学校を卒業すると、偉いもののように考えて居たので、自然かう云ふやうな店に辛抱することは、六ケ敷からうと思はれて居った。其時分新聞記者として鳴らして居た尾崎行雄君の如きは、黒塗の人力車を飛ばして、慰問に来ると云ったやうな風であった。
其れで氏もこれでは、友逹に対しても世間に対しても、ドウしてもやりとうさねばならぬと、深く覺悟を定め、同時に、仕事に対しては、慶応義塾を卒業したと云ふやうな観念や、同窓生と云うやうな考を全然忘れて了ひ丁稚小僧の氣になつて、専心商売の道を覺えてやうと努めた。
(つづく)

(出典:国会図書館デジタルコレクション)