村井保固伝  財界巨頭伝:立志奮闘 2

(同窓生と政治運動を試む)
 ところが学校に入学してみると、自分の理想通りではない。生徒の顔つきから角帯を締めてダラリとしておる様子が、曾ては戦争でもやろうと迄思った自分の頭には如何にも女々しく映じた。心外でたまらないので演説会で一つ攻撃して遣ろうと思って、田舎土産という演題を掲げて『自分は田舎で考えて居った時には、慶應の書生というものは、モツとアクチブであると想っていた。然るに書生の分際で、前垂れ掛けとは何事であるか。第一顔つきが気に食わない。気の毒に堪えない。云々』と言って散々攻撃した。
当事慶應の生徒も戦争の影響を受けて減少し、300人位に過ぎなかったが、酷い攻撃演説をやったので、誰か殴りに来ると思っていたら誰も来なかった。
その頃慶應の生徒であった犬養毅尾崎行雄等の諸氏は、協議社という会を組織して居たが、氏にも入らぬかと勧めたので入会することになった。
入会してみると、話題は大臣参謀になるとか、或いは天下国家のことであって、氏も共に国事を、論議して居った。
当事治外法権を撤廃せよという議論があって、会員等は其々部署を定めて、各国公使館を歴訪して意見を述べたが、氏もまた米国公使館に赴いて談判したものである。

 (福澤先生の演説に感激) その時分の慶應の書生というものは、新聞記者か教師か役人になろうという希望を持った人々が多かったが、氏は政治家か学者になろうと思った。
 所が氏の同窓に知識五郎という薩摩人が居った。氏はその知識に向かって、『君の父さんに話して自分を役人に世話してもらってくれまいか』というと『君はまだ世の中を知らない』というから、『そりゃドウ言う訳だ?』と反問した。
 すると、知識は『君は御維新を誰がやったと思うか。それまでには、薩摩や長州がドレだけ血を流したか知れない。俺の叔父なども、蛤御門で血を流した一人だ、一体貴様の叔父は、御維新の時、小指の一本も落としたかい、だから伊予の奴が役人になろうなどと想うのは間違いだ』と、こう言って答えた。成程聞いてみれば尤も千万だと思ってそれ以来役人になる気をプッツリ止めてしまった。さりとて教師にも、新聞記者にも気が進まなかった。
 東京に来て六か月ばかりすると、ダンダン世間の事情が分かってきた。
 折柄、福澤先生は講壇に立って『今後の日本にはビジネスが必要である。一国の繫栄は、コムマースである。商売は一国の原動力である。学者や教師や役人は、皆この原動力に付いてくるものである』と、言って熱弁を揮われた。
 こういう趣意の下に、先生は商売を発達せしむるには、日本の在来の大福帳ではいかぬと言うので、明治9年頃早くも西洋の簿記法を翻訳して帳合法と名ずけられた。
 氏は自分の将来の身の振り方について迷っていた際に、そうした福澤先生の演説を聞いて、恰も百年の迷夢一朝にして覚めたような気持がした、すして、商売だ!商売こそ、自分の生涯の仕事である。自分は商売のために全生涯を捧げて遣ろうと、堅くも決心したのであった。

(天秤棒を担ぐ所が望み)その内に演説会があったので、氏は『町人乞食』という演題を掲げて、『今後の町人は、従来の如く無学であって、且つ徒に守銭奴であってはいかぬ。品性を大いに向上せなければならぬ。日本の商売を大いに発達せしむるには、製造の商売を振興発達せしめなければダメだ。先ず以って、本心を改めなければならぬ。学問をすると、直ぐ新聞記者とか、役人とかになろうとのみ思って居るが、それではいかぬ。学問した人は国家のために進んで
商売人にならねばならぬ』と、こういう意味の事を熱心に演壇から述べ立てた。
福澤先生はジツと氏の演説を聴いて居られたが、大いに気に入って『話は大層面白い。一つ奮発して遣らぬか』と仰しやるので、氏は『無論やります』と答えると、先生は『商売をやろうという気なら三井や、岩崎なども知って居るから、世話してやらう』と仰しやつたので氏は「先生違いますぞ、私は三井や岩崎のやうな所へは入りたくはありません。私は半商半官というようなところは好みません……」というと先生は『其れならばドウ云う所が好きなのか』と反問された。
 氏は『餘り世間には知られて居らない所で――向うでも天秤棒を担ぎ、此方も天秤棒を担いで一所にやろうというような所が望です』と答えると、先生は『其れは面白い。そういう所はあるかも知れぬ』と仰しやつたのであった。
福澤先生は、こういう話は飯を食いながら話され、氏にも酒を飲め、飯を食えと云ったような調子で、気楽に勝手に話されたのであった。
(つづく)