村井保固伝  財界巨頭伝:立志奮闘 7

五十年間一貫の處世方針氏は米國の貿易界に乗り出してから、五十ケ年になり、その間太平洋を横断したこと八十有六回に及んで居るが、其過去五十年間の貿易生活に於いて、氏はドウ去ふ處世の方針で進み来つたか。又その間如何なる体験をやったかと云ふに氏はサアヴィス――奉仕の感念を以て終始一貫し来つたと言ひ得る。
又人間は正直でなければならぬ。曲ったことでは、健全なる成功は望まれないと云ふことを、体験した。
氏は過去五十年間商売をする上に於いて、日本とか米国と云ふやうな区別を置かなかった。又使って居る日本人と、西洋人の間にも偏頗の考を有たず、極めて公正に対して来た。
其れで、若い日本人の店員が、西洋人の客を観て『毛唐が……』など言ったことを耳にし、其西洋人が去った後に、其の若い日本人の店員を呼んで『大切なお客を捉えて、毛唐とは何事だ……』と言つて戒めたこともあった位である。
店員に対しても亦同様で、店には日本人の外に、二百名からの男女の米國人を使って居った。さうして氏は別に叱ったことはないけれども、皆よく一所懸命に働いてくれた。かうした真剣な店内の空気は、餘り多く他に観られないと称されてある。畢竟これは全くフェアーな公正な考えを以って、内外の店員に対し、奉仕の観念を以って、仕事の中心としたからであらう。
氏は平素の感謝の念を以って充ち満ちて居った。さうして居常奉仕の精神に燃えて居った。ドウかして優良な低廉な商品を貿易市場に供給し、以て日米の貿易を発展せしめ、日本の国家に貢献したいと云うのが、氏の五十年間貿易生活を終始した願望であった。
氏の過去七十五年間に於いて、三人の立派な指導者を獲た。福澤先生と森村市左衛門さんと、それからモウ一人は寺のお坊さんである。氏はかうした立派な三人の指導者を獲た為めに、氏の過去七十五年間の生活は、非常に楽しく且つ幸福であった。さうして氏の幼年時代に、氏の幼き頭に、奉仕感謝の念を深く深く刻み込んだ者は、其寺のお坊さんであった。
 (おわり)
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昭和5年発行の『財界巨頭伝』は村井保固翁75歳頃のもので、出版社の編者が巨頭らの人物を描くところは、やや誇張されている様であるが、今後も保固翁の生きざま、特にクリスチャンになった話、私財を投じて慈善事業や社会事業貢献に心血を注いだ事などを更に追っていく。