村井保固伝 (はじめに)

 この度、ブログタイトルを「トランパーMIYA2015」「宮本しげるトランパー」に続き3回目の改名「吉田三傑2017」とした。
当初は自書「トランパー」の宣伝のためにブログを立ち上げたが、我が故郷には「吉田三傑」と称し、山下亀三郎、清家吉次郎、村井保固の三大偉人がいた。
ブロガーは「トランパー」出版後、関係諸氏から多くの情報をいただいた。「トランパー」の主人公、亀三郎に続き、吉次郎伝を書いたが、二人の先輩である保固のことも紹介しなければならない。
であればいっそブログ名を「吉田三傑」にして、四国の片田舎、伊予吉田が誇る快男児たちを広く世間に伝えたいと思う。
旧吉田藩伊達三万石の人口1万人足らずの町に、これほどの偉人たちが輩出されたことは、明治という近代日本建設の歴史的背景があったとしても快挙ではないか。
 来年、2018年は明治維新より150周年を迎える。この節目に明治、大正、昭和の近代史に名を残した三傑に想いを馳せるのも有意義な事と思う。

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森村市左衛門の著「奮闘主義」(大正5年・実業之日本社

 この本の冒頭に「第一奮闘主義の根本基」と題し、
…人としてこの世に生まれた以上、我々は何よりも自ら活きねばならない、自ら起たね
ばならない。これ丈けのことは、何人にも直ちに了解される、さうして極めて易々たる事のやうに思はれる。併しながら、実際に当って見ると、自ら活きるといふことは却々難かしい。卽ち、自ら活きるといふのは、吾々の最善を尽くして、如何なる場合、如何なる境遇に際しても必ず後れを取らぬといふ強い、確かな、堅固なところがなければならぬのである。
事実、人生にはいつも春の波のやうな穏やかなことばかりはない。寧ろ、不断に怒涛逆巻き、狂瀾躍るというのが人生の常である。それ故、人はいつでも、それらの兇変に備えるだけの強靭な覚悟がなくてはならい。この確固たる覚悟、用意があってこそ始めて眞に自ら生きることの出来る人なのである。…
という書き出しで始まる本に、第7編「全力主義の村井保固氏」と興味深く書かれている。
国立国会図書館デジタルコレクションから公開されている話を紹介するが、その前に二人のプロフィールを記す。
村井保固
安政元年〜昭和11年
安政元年(1854)9月24日、吉田藩御船手に父林虎市と母さよの次男として生まれた。幼名を三治、13歳で奉公にでたが、その傍ら毎晩漢学の勉強に通っていた。明治2年に村井家の養子となり、名を保固と改めた。教師を目指し勉学に励んでいた彼は、西園寺公成との出会いが契機となり、宇和島の不棄英学校に入学する。英学校では教師中上川彦次郎に刺激され、学問への意欲と西洋文明へのあこがれをかき立てられた。
明治10年、24歳で慶応義塾に入学。福沢諭吉の教えを受け、犬養毅尾崎行雄らと親交を結ぶ。卒業後、当時アメリカと貿易をしていた森村組に入社。明治12年ニューヨーク支店勤務となり、持ち前の情熱と誠実さで実業界でめざましい活躍を遂げた。
・その一方私財を投じて、実業奨励会、愛郷会、吉田病院、吉田中学(現吉田高校)、図書館を設立、郷土の教育・福祉に貢献した。
昭和11年2月11日、83歳で没。

森村市左衛門
天保10年10月27日(1839年12月2日)-大正8年(1919年)9月11日)
森村財閥の創設者である。1876年に弟森村豊がニューヨークへ渡る事を決めた事から森村組(現・森村商事)を設立した。
森村豊(トヨ)は、1876年(明治9年内務省勧商局の支援と福沢諭吉の協力の下、「米国商法実習生」の一人に選ばれてニューヨークに渡る。商業・語学を3ヶ月学んだ後、佐藤百太郎とともに日の出商会を設立。1878年にニューヨークの六番街で森村組の現地法人として森村ブラザーズ(Morimura Bros. & Company)を単独で開業した。森村ブラザーズの経営は小売から卸売への転換で順調に軌道に乗り、翌1879年には売上高が5万ドルを超えた。新しい店に移転(住所:546 Broadway)し120人以上の従業員を擁した。森村豊は福沢諭吉の推薦により村井保固を日本から迎え入れ、森村ブラザーズのアメリカ支配人とした。
1894年に6代・市左衛門を襲名、ディナーセットの生産を目指して日本陶器合名会社(現在のノリタケカンパニーリミテド)を1904年に設立した。
1917年から翌年にかけてそれまでの森村組の事業と陶磁器以外の物品の輸出入を行なう森村商事株式会社を設立し、森村組は持株会社となった。
1905年より高圧がいしの製造を始めて芝浦製作所(現・東芝)に納入し、没年の1919年には日本碍子株式会社として独立している。また、衛生陶器について1912年から研究を行ない、1917年に東洋陶器株式会社(現・TOTO)を設立した。
貿易の専門家として1882年の日本銀行設立時に監事となった経験を活かし、1897年に森村銀行を設立した(1929年に三菱銀行(現在の三菱東京UFJ銀行)が吸収合併)。

また、市左衛門は教育・社会活動にも非常に積極的で、1901年に財団法人森村豊明会を設立し、教育事業や社会事業に多額の寄付を行った。豊明会の名称は、設立前年の1900年に相次いで死去した弟・豊と長男・明六の名から命名したものである。とくに、早稲田大学慶應義塾大学日本女子大学高千穂大学には多額の寄付を行なっている。1910年には自邸内に私立南高輪尋常小学校・同幼稚園(現・森村学園)を創設した。
この他にも北里柴三郎の活動を早くから支援し、1892年に設立された伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所、初代所長は北里柴三郎)や、北里が伝染病研究所から独立して1914年に設立した北里研究所にも多額の寄付を行なった。
1915年にそれまでの功績に対して男爵・従五位に叙せられた。1919年に胃の幽門部の癌と萎縮腎のため79歳で死去し、正五位勲三等瑞宝章が追贈された。次男森村開作が7代目市左衛門を襲名した。
(ウキペディアより)